落選がもたらした中上健次との出会い:私の謎 柄谷行人回想録⑦
記事:じんぶん堂企画室
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――1967年3月に東大大学院の修士課程を修了して、最初は国学院大学の非常勤講師として英語を教えていたそうですね。
柄谷 当時は、英文科を出てまず英語の教師になるというのは、よくあるパターンでした。いきなり英文学を教えるというのはなかなか難しいから。実は最初に、ある東大の教授から、ある大学の専任講師の職があるということで、面接に行ったんだよ。ほぼ内定していたらしいんだけどね。週3日授業を持ってくれと言われたので、忙しいから週2日にしてほしい、といった。そしたら、その場でもう「さようなら」ということになってしまった。それを斡旋してくれた教授は、僕のことを怒っていたらしい。
――メンツ丸つぶれだったんでしょうね。それは、指導教官だった大橋健三郎さんではないんですか?
柄谷 別の人です。大橋さんは僕のことがわかってるから、そんなことはしない(笑)。その結果、同学年15人の中で僕だけ専任の職がなくて、国学院大学の非常勤講師になった。その後、大橋さんは心配して僕のために仕事を探してくれて、それで日本医大に行くことになったんです。1968年4月です。そのとき、大橋さんに「柄谷君、喧嘩しないでくれよ」と言われたけど、「僕は喧嘩なんてしません。するとしたら、向こうの方です」と言っておいたよ(笑)。実はその後、喧嘩したんだ。2年後に、日本医大を辞めた。
――70年安保闘争の頃ですね。
柄谷 僕は60年代後期の学生運動には興味がなかった。日本医大で教えていても、授業をボイコットする学生をしかったこともあったし、物書きとして全共闘を支援するようなことを書いたこともなかった。ただ、学生運動への処分を巡る大学の方針には反対で、それで70年3月に辞職しました。
別に学生運動の内容に共感していたわけではありませんが、大学側の対応はおかしいと思った。だから、同僚の若い教師2人と一緒に大学を辞めたんです。彼らはそれぞれ家業を継いだ。僕も、物書きに専念しようと思ったのです。ところが、僕のことを風の便りで聞いた知人が働きかけてくれた。その結果、4月から、つまり辞職して1カ月もしないうちに、法政大学第一教養部で専任講師として教えることになったのです。
日本医大で教えたのはたった2年だけど、その後、2011年に反原発のデモに参加していたら、見覚えがない人から「先生」と声をかけられた。かつて日本医大でストライキをやっていた学生だと自己紹介された。どこかの病院で院長をしていると言ってました。
――この頃には、群像新人文学賞評論部門に応募しています。「〈意識〉と〈自然〉—漱石試論」で受賞に至った69年は3度目の応募だったと聞いています。最初は、「表現論序説」。その次が「〈批評〉の死」というタイトルで、最終選考まで残っています。
柄谷 当時の文学新人賞で批評部門があったのは、群像新人賞だけだったんじゃないかな。他にないから、ここに投稿したわけです。書いた内容は忘れたけど、「〈批評〉の死」の方は何となく記憶にあるね。たぶん理論的なものだったと思う。しかし、面白いのはむしろ、その落選がきっかけで、中上健次に出会ったことですよ。
――盟友関係になるお二人ですが、お互いデビュー前ですね。
柄谷 そうです。68年の群像新人賞で最終選考まで残って落選した後、遠藤周作に呼び出されたんです。当時、遠藤さんは売れっ子の作家でしたが、「三田文学」の編集長を引き受けたんですね。新宿の紀伊國屋書店ビルの4階あたりに編集室があった。行ってみると、そこに中上がいた。もちろん、そのときには誰だか知らなかったけどね。
――68年だと、柄谷さんは27歳、中上さんは22歳の年ですね。遠藤さんとはそれ以前に知り合っていたんですか?
柄谷 いや、面識はなかった。後には、けっこう仲良くなりましたけどね。実は遠藤さんは、少年時代阪神間に住んでいたことがあって、学校も灘中を出ている。だから僕と同郷といえば同郷なんです。
話を戻すと、遠藤さんは僕らを呼び出して「種を明かせば」という感じで事情を話し出した。要するに、「三田文学」の編集長として、どうすれば苦労せずにいい書き手を見つけられるか、知恵を絞ったんだね。そこで「群像」(文芸誌)の編集部に相談して、「新人賞に落ちた作品を回してくれ」と頼んだという。そして、落選作を読んで、評論から僕を、小説から中上を選んだ。
――最終選考作とはいえ、さすがの目利きですね。
柄谷 一応、読んだんでしょうね。そして、それを「三田文学」に載せたいといってきた。しかし、僕は即座に断りました。なぜかというと、もう次の応募作を書いていたので、その前に変なことをしたくなかったから。僕がその部屋を出て、廊下でエレベーターに乗ろうとしていたとき、中上が追いかけて来たんです。それで、ちょっと下の喫茶店で話していこう、ということになった。
僕が先に断らなかったら、中上は掲載を承諾したかもしれないね。そのあと、お互いに自己紹介した。彼は「文芸首都」(中上が参加していた同人誌)とかの話をしたと思う。そこに太宰治の娘(津島佑子)がいる、ということを自慢げに話していたのを覚えています。
――最初に会ったときの中上さんの印象は?
柄谷 あんな様子ですよ(笑)。年齢で言うと、僕が5つ上。生意気だけど、結構いい奴だなと思ったんですよ。そういう初対面だった。
――2人の対談「文学の現在を問う」(「現代思想」1978年1月号、『柄谷行人中上健次全対話』所収)で、中上さんが出会いを振り返っていますが、遠藤周作という「大先輩」に会って、「会えてよかった」と思っている隣で、柄谷さんがポリポリせんべいをかじっていたと語っています。
柄谷 せんべいのことは覚えてないな(笑)。ただ、以後、月に1回ぐらい会うようになりました。当時は僕もひまだったからね。2人で喫茶店に行ったり、中上が家に来たりして、何時間でも話しましたね。当時の僕はたばこもやらなかったし、酒もそんなに飲まなかった。
――中上さんもまだ羽田空港で働く前で、決まった仕事をしていなかったんでしょうか。
柄谷 いや、働いてたよ。本を読んで、文章を書いていたんだから。それはマメにやっていたと思う。遊んで暮らしていたわけじゃない。もっとも、文学は遊びみたいなものだと思われていたし、「小説なんか読みさらして」なんて言われていたくらいだけどね。
――当時はどんな話を?
柄谷 文学や思想の話ですよ。出会って間もない頃だと思うけど、僕は中上に「フォークナーを読め」と言った。
――なぜフォークナーをすすめたんですか?
柄谷 僕は大学院でアメリカ文学専攻したとき、大橋健三郎(日本を代表するフォークナー研究者で知られるアメリカ文学者)のゼミにいたからね。フォークナーはノーベル賞をもらった後まもなく、1955年に来日したんだけど、そのとき案内したのが大橋さんだったんですよ。フォークナーは、東京の他にどこか行きたいところがあるかを聞かれて、自分の故郷であるミシシッピーに当たるような場所があれば行ってみたいと答えたんだって。そのとき、大橋さんは長野県をすすめた。僕は後でその話を聞いて、大橋さんに「南部だとしたら、長野よりも九州のどこかとか、紀州のどこかがよかったんじゃないですか」と言ったことがあった。
――フォークナーが描いたアメリカの南部に近いと感じたわけですね。
柄谷 そういう経験があったから、中上が新宮出身だと聞いて、「フォークナーを読め」と言ったのかも知れない。ところが、それから3カ月くらい経ったころ、中上が僕に向かって、「俺は日本のフォークナーになる」と宣言した。どの作品を読んだかわからないけど、これはもう自分にぴったりだと思ったんだろう。
――当時の中上さんは、大江健三郎の影響が非常に強い作品を書いていましたよね。
柄谷 そうそう。大江そのままだった。だからこそ、ちょっとまずいんだ。実は、大江さんに関して当時僕が気づかなかったことが一つある。「谷間の村」(大江が故郷の愛媛県内子町をモデルにして作中で描いた場所)は、フランス文学から着想したのではないか、と何となく考えていたのです。
――大江さんは東大仏文で、渡辺一夫のもとでフランス文学を学んでいますからね。
柄谷 ラブレーとか、フランスにおいて該当するような作家がいるのかなと思っていた。だけど、彼が影響を受けていたのは、実はフォークナーだったんです。大江の「谷間の村」は、フォークナー作品のイメージにもとづいていた。
――大江さんの小説にたびたび登場した「谷間の村」は、生まれ育った愛媛の村がモデルになっています。一方で、フォークナーには、自身の故郷をモデルにした「ヨクナパトーファ郡」を舞台にした一連の作品「ヨクナパトーファ・サーガ」があります。
柄谷 僕が、大江さんがフォークナーを読み込んでいることを知ったのは、90年代になってからです。アメリカで会ったとき、彼自身から聞いた。僕は、フランス文学からどうやって大江的文学が出てくるのか、それらがどう繋がるのかなと不思議に思っていたから、なるほどそうか、と思った。そうすると、僕が中上に「フォークナーを読め」と言って、彼が「俺は日本のフォークナーになる」というのはね、ちょっとまずいでしょ。
――すでに1人先行している、と。
柄谷 しかも先行していたのは、中上が一番意識していた相手だった。僕は大江健三郎がフォークナーの影響を受けたとは思わなかったから、中上に間違った暗示を与えてしまったかもしれない。
――でも、フォークナーを読まなかったら、新宮を舞台にした『岬』や『枯木灘』、『千年の愉楽』といった作品は生まれなかったかもしれないですよね。
柄谷 それはそうです。他にもそういうことがあったね。僕が中上に、エリック・ホッファーを読めと言ってしばらく経つと、「柄谷はホッファーをわかってない、俺が日本のホッファーになる」と言い出したこともあった(笑)
――ホッファーは、港湾で働きながら独学で思索を深め、「沖仲仕の哲学者」と呼ばれたアメリカの思想家ですね。柄谷さんには、『現代という時代の気質』(ちくま学芸文庫)の翻訳もあります。
柄谷 実際、中上が羽田空港で肉体労働をするようになったのは、ホッファーを読んだからですよ。とにかく、ものすごく本を読んでいた。彼は本当に勉強する作家だった。
――ちなみに、お二人の出会いの話は、中上さんもエッセーで書いています(「わが友柄谷行人」『鳥のように獣のように』講談社文芸文庫所収)。中上さんは遠藤周作に最初原稿を引き受けると答えたのですが、横で若い男がせんべいをボリボリ食べているのに腹が立って、席を立とうとすると、「ぼくもいっしょに」と、その若い男もついてきた、と。それが柄谷さんだった、と書いています。
柄谷 いや、先に出たのは僕だった。中上はでたらめを言う可能性が非常にあるよ(笑)。あいつはそもそも、予備校に行くといって東京に出てきて、途中から全然行ってなかった。親は大学を出たと思い込んでいたんだから。結婚式のスピーチを頼まれたときは困ったな。
――中上さんと作家の紀和鏡さんの結婚は、1970年ですね。芥川賞候補になった「19歳の地図」が73年の発表ですから、まだ文壇で注目を集める前です。
柄谷 僕も群像新人賞をもらってさほど経っていない時期だけど、中上はまだ作家とも言いがたい段階だった。その中上から、仲人をするように頼まれたんだね。普通、仲人のスピーチは、新郎新婦の学校、職業などの経歴をいって称賛しておけばすむものなのに、まさにそれを言わないように頼まれたんだからね。それで苦心した。ところが、中上は、後で僕に「母親が『あんなとんでもない仲人は、見たことがない。大学を出たことを一言も言わないなんてどういう神経だ』とか言ってたぞ」とか、うれしそうに言うんだよ。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は群像新人賞を受賞して批評家としてデビューした頃の話。月1回更新予定)