日本とは異なるインドの古典的成仏観に迫る:大竹晋『仏のなりかた――上座部、説一切有部、唯識派による古典的成仏論』
記事:春秋社
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本書は6世紀頃までのインドの古典的な成仏論として、上座部・説一切有部・唯識派の三派を分析しています。6世紀ごろまでのインドでは、空思想で有名な中観派も活動していました。そのうち、なぜこの三派を選んだのか、著者は次のように述べています。
諸部派について言えば、十八部のうち、〝仏のなりかた〟について語っている文献を現代に伝えているのはほとんど上座部と説一切有部とに限られるからである。次に、二大学派について言えば、二大学派のうち、〝仏のなりかた〟について語っているのはおおむね唯識派だからである。そもそも、中観派の派祖ナーガールジュナ(龍樹。二―三世紀)は『根本中頌』において〝仏のなりかた〟についてほとんど語っていない。唯識派において、学派の営為として唯識派独自の〝仏のなりかた〟が考え出されるに至って、中観派においても、バーヴィヴェーカ(清辨。六世紀ごろ)のころから個々の学者がそれを摂取するようになった。p.5
インドでは、それぞれの部派・学派が経蔵(経典)・律蔵(出家者の規律)・論蔵(経典の補論)からなる独自の三蔵を正典に定めていました。この三派も独自の三蔵に基づき、〝仏のなりかた〟を追究していたわけです。
さらに言えば、語弊があるかもしれませんが、原始仏教の影響を残す上座部、部派仏教を代表する説一切有部、大乗仏教を代表する唯識派の三派というイメージでとらえていただけたらよいかもしれません。
さて、成仏の問題については、修行の階位を始めとして様々な観点があります。本書ではそれを九つの観点にまとめてみました。その九点は以下の通りです。
(1)行位―修行の階位、(2)受生―修行の階位における転生、(3)種姓―転生において顕在化する聖者の血統、(4)現観―聖者の血統によって可能となる真理の直観、(5)断惑―真理の直観によって断たれる煩悩、(6)延寿―煩悩を断ちきることによって寿命を延長すること、(7)成仏―寿命を延長することによって仏となること、(8)仏身―仏になることで獲得される身体、(9)仏土―仏の身体が居住する国土、です。
転生や血統、寿命などは、私たちには思いもよらない項目だと思います。しかし、インドで実際に成仏を目標に修行する僧侶には重要な問題であったわけです。このあたりは、一切成仏や速疾成仏などを重視する日本仏教とは大きく異なる視点だと思います。
それぞれの問題の検討と三派間の異同は本書で確認してほしいと思いますが、唯識派独自の問題も垣間見ることができます。たとえば、種姓では不定種姓、無種姓の存在を認めるようになったり、現観の対象も伝統的な四諦から真如へ変わったり、仏身では仏国土(浄土)にいる受用身(報身)を説くようになったりしました。これら真如や受用身は、大乗仏教の特徴ともいえ、それらをじょうずに従来の成仏論に組み込んだ努力の結果とも言えます。
三派の成仏論は今挙げましたように大乗仏教特有の展開も見られたりしますが、一致しているところも少なくありません。三派の成仏論の間の違いは、三派の成仏論と中国の諸宗の成仏論との違い、あるいは三派の成仏論と日本の諸宗の成仏論との違いに比べれば、ずっと小さいと言えます。
著者は最後の結章でこの点を、部派の三蔵の重視、註釈と綱要書との重視、多劫成仏の重視、一分不成仏の重視の四点からまとめています。そのうち、部派の三蔵の重視の指摘を紹介いたしましょう。
上座部、説一切有部、唯識派は部派の三蔵の重視という点において一致している。……中国の諸宗は、玄奘によってインドから直接移入された唯識派である法相宗を例外として、いずれもインドから直接移入された部派/学派ではなかったため、大乗経を文字どおりに受け容れたのである。p.346
このように中国では大乗経を文字通りに受け容れたため、インドの諸部派/諸学派とは大きく異なる展開を遂げたことを指摘しています。この傾向は、日本ではもっと推し進める形で展開し、さらに特定の経典だけを重視するような姿勢が顕著になりました。同じようなことは、註釈と綱要書との重視、多劫成仏の重視、一分不成仏の重視の点にも言えます。
本書を読むと、改めて、インド人と日本人の思考や好みの違いが大きいことに気づかされるとともに、この大きな違いをそのままに包摂している仏教という宗教の大きさにも驚かされます。
(文・春秋社編集部)