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ヴィパッサナーと坐禅にはどんな関係があるのか  蓑輪顕量『仏教瞑想論』

記事:春秋社

PexelsのAndrea Piacquadioによる写真
PexelsのAndrea Piacquadioによる写真

瞑想との接点

 自分の呼吸を観察していて最初に学んだのは、これまであれほど多くの本を読み、大学であれほど多くの講座に出席してきたにもかかわらず、自分の心については無知に等しく、心を制御するのがほぼ不可能だということだった。どれほど努力しても、息が自分の鼻を出入りする実状を一〇秒と観察しないうちに、心がどこかへさまよいだしてしまう。私は長年、自分が人生の主人であり、自己ブランドのCEOだとばかり思い込んでいた。だが、瞑想を数時間してみただけで、自分をほとんど制御できないことがわかった。私はCEOではなく、せいぜい守衛程度のものだった。
ユヴァル・ノア・ハラリ「21 瞑想 ひたすら観察せよ」『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』より

 これはハラリが友人に促され、S・N・ゴエンカのヴィパッサナー講習に行った際の感想である。ヴィパッサナーという言葉を聞いたことがあり、それが瞑想の一種らしいことを知っている人は多いだろう。

 一般的に瞑想との接点といえば京都への修学旅行で行う坐禅だろうか。瞑想が教養の一環であるという伝統は昔から続いており、教養を深めようと近くのお寺の坐禅会に参加するということもあるかもしれない。とにかく、我々の身の回りにある瞑想とは坐禅であろう。

 だが、ヴィパッサナーは仏教の瞑想法の一つらしいではないか。禅宗も仏教なのだとしたら、坐禅とヴィパッサナーはどのような関係にあるのだろう。

 そうした疑問に答えるのが仏教における瞑想の系譜を追った『仏教瞑想論』である。

仏教瞑想の系譜

 仏教は紀元前5~4世紀のインドにおいてガウタマ・シッダールタ(以下 釈迦)という人物が説いた教えから始まっており、それがインドから各地に伝わっていった。そして仏教には瞑想の実践が含まれていたため、仏教の伝播は瞑想法の伝播でもあったわけである。『仏教瞑想論』には仏教瞑想がインドから中国、そして日本に伝わってくる系譜が記されている。それを読めばヴィパッサナーと坐禅の関係が分かってくるのである。

 ヴィパッサナーは観察するという意味のパーリ語で釈迦のオリジナルの技法というよりはインドの伝統にあるもののようだが、仏教の主要な教えが見出されたのはヴィパッサナーのおかげであると考えられている。仏教は色々な観察対象を持ち、どのようにヴィパッサナーするか、何のためにヴィパッサナーするかなども解釈によるのでこれが正しいというのは難しい。仏教には大量の瞑想に関する文献があるのだ。

 有名なものでハラリが体験したものもそうだが、出る息と吸う息に気づくという瞑想がある。息が出ていっているときには「出ていっているな」と気づき、息を吸っているときには「息を吸っているな」と気づくことを行う。普段気にも留めない息の動きに気づく。するとハラリのようにその気づきに心を向けていられないという驚きがあるようだ。また釈迦はヴィパッサナーのおかげで無常や縁起に気づいたという考え方もある。

 入る息も出る息も、しばらくの間(刹那と表現できます)のことであり、また直ぐ次の入る息、出る息という動作に取って代わられるわけですから、生じては直ぐ滅しています。(中略)捉まえられる対象になっているものも捉まえているものも、生じては滅するものであり、それは永遠を保つものではありません。永遠ではない、というのは無常ということです。(p.25)
 捉まえられる対象としての「色」が生じたときに、すなわち在るときに捉まえる働きの「名」が生じるということに端を発し、そのような在り方が一つの言葉で表現されたのです。すなわち普遍化して表現すれば、「此れが有るときに、彼が有る。此れが滅するとき、彼が滅する」という在り方が意識化されることになるのです。(pp.26-27)

 そしてこのヴィパッサナーはインドを離れて中国に入る。ヴィパッサナーは観と漢訳され、それに関する経典が訳されたり、作られたりする。そのなかで達磨大師を初祖と仰ぐ禅宗という瞑想を強調する宗派が誕生したのである。

 中国で仏教瞑想は老荘思想の影響を受け、「平常心是道」といった心の働きを肯定的に考える思潮が生まれ、また、公案という新しい瞑想の対象も生まれた。そして呼吸の観察と気の思想が結びつき、呼吸によって気を流すという発想が生じた。そこから気を流すために姿勢にこだわる傾向も生まれたのである。こうして新しい要素は付け加わったが、起こっていることに気づくという観の要素が無くなることはなかった。

 そしてこの禅宗が日本に入ってきて現在につながっていくわけだが、坐禅会に行ってヴィパッサナーの要素を感じられるかというと難しい。私は坐禅中に何か浮かんできても気にしなくてよいと言われた。これは中国での心の働きを肯定的に観る観方の影響だろう。気づく(サティ)という点の強調がヴィパッサナーの特徴なのだとしたら、坐禅はヴィパッサナー的ではない。だが、それは指導者によるとも言える。現在、ヴィパッサナーの世界的な流行にあわせて、日本の仏教でも先祖返り的に上述した中国を経由したルートではない仏教瞑想が取り入れられている。中国から仏教を輸入したときのような熱いムーブメントが現在の日本でも起こっている、もしくはそれは少し前の話なので起こっていたと言えるだろう。

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