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語ることで見えてきた偶然の運命:私の謎 柄谷行人回想録⑧

記事:じんぶん堂企画室

「群像」1969年6月号(講談社)。群像新人賞が発表され、評論部門で柄谷さん、小説部門の受賞者は後に芥川賞や野間文芸賞を受賞する李恢成さんが当選した
「群像」1969年6月号(講談社)。群像新人賞が発表され、評論部門で柄谷さん、小説部門の受賞者は後に芥川賞や野間文芸賞を受賞する李恢成さんが当選した

――69年5月、柄谷さんは夏目漱石論で群像新人文学賞評論部門を受賞し、本格的な文壇デビューを果たします。

《受賞作「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」(単行本収録時に、「意識と自然――漱石試論(Ⅰ)」に改題)は、『門』や『こころ』といった漱石の長編小説ではテーマが分裂しているという指摘から始まる。しかし柄谷さんはそれを「構成的破綻」と言って終わらせるのではなく、漱石が多義的に使う〈自然〉という言葉に着目し、シェークスピアやエリオット、キルケゴールなどを援用しながら読み解いていく》

柄谷 応募したのは、68年の冬かな。そのとき、父が癌だったのですが、秋に書き終わってまもなく亡くなりました。だから、父は僕が受賞したことを知らない。

――文学賞に応募しているということも知らせなかったんですか?

柄谷 知らせなかったね。最後まで、文学の話も思想の話もしなかった。父は末期癌の告知を受けてからも淡々としていて、闘病中には、数学の大学受験問題集のようなものを買ってきて解いていたようです。実家に問題集と回答が残っていた。乳癌だったのですが、男性がなるとは思っていなくて、それで発見が遅れた。気付いたときには末期でした。

――「群像」掲載の「受賞の言葉」によれば、お子さんの出産も控えていたようですね。「この間私はいわば〈自然過程〉に翻弄されてきたのだった」とあります。

柄谷 まあね。50年前の言葉を引っ張り出されても困るけど(笑)。賞を取ったときに、自分が何を書いたか、どう考えていたか、というような問いに対する、普通の答え方は、むしろ、この「じんぶん堂」のインタビューを受けるの前の方ができたと思う。どういうことかというと、子ども時代のことや親のことをしゃべったのが特に大きいんだけど、この機会に、自分の昔の仕事に対する観点が微妙に変わってきたってことですね。自分にとっても、それがちょっと面白い。これまで考えていなかった見方が出てきた、っていう感じがする。一番思うのは、偶然が大きいってことだね。これまでやってきたことは、自分で意図して作ってきたって感じがほとんどない。考えてみたら、賞をもらうことだって、偶然に頼ってるわけでしょ? そういうことをふくめて、運命かな、と思う。

賞をもらったのも偶然

「受賞の言葉」と柄谷さんの写真=「群像」1969年6月号(講談社)より
「受賞の言葉」と柄谷さんの写真=「群像」1969年6月号(講談社)より

――選考委員が選んでいるわけですから、賞に値する理由がある。つまり、必然性がある、と考えてしまいますけども。

柄谷 実はそんなことはない(笑)。例えば、僕は長年、群像新人賞の選考委員をやってたでしょ?(1987~99年)。そのときの経験で言えば、最初は僕一人しか推さなかった作品が、議論するうちに他の選考委員も賛成に回って受賞になったことがあった。いま活躍している作家でも、そうやって当選した人が何人かいますよ。

――確かに、そういう話は聞きますね。逆に、一人の選考委員が強行に反対して受賞を逃したという話もあります。

柄谷 何人かの作家は、僕が選考委員じゃなかったら、作家になっていなかったかもしれない(笑)。少なくともその賞はもらってなかった。その人たちは運がよかったな、と思うでしょ。だから、運に負うている部分があるんじゃないですか。

――柄谷さんの場合は、群像新人賞は江藤淳、大江健三郎、安岡章太郎、野間宏の4人。戦後文学を代表するようなメンバーです。選評を読み直すとなかなか厳しいですけども。

選評とあわせて掲載された選考委員の写真。右から、大江健三郎、野間宏、安岡章太郎、江藤淳=「群像」1969年6月号(講談社)より
選評とあわせて掲載された選考委員の写真。右から、大江健三郎、野間宏、安岡章太郎、江藤淳=「群像」1969年6月号(講談社)より

柄谷 それでも一応、同意して選んだわけでしょう。僕が出てきたときにはその人たちがいた、ということですね。要するに運で決まるんだよな。そんなに必然じゃないなっていう気がしますね。

――江藤淳は柄谷さんに投票したと明らかにしていますね。大江健三郎は、柄谷さんが当選作で様々な思想を引用していることを情報氾濫の反映とみながら、こう書いています。「こうした知的情報の荒野にふみこんでしまっていることを覚悟し、そこに自分自身の人間的な根源に至る狭い通路をきりひらくことへの志向を、この若い批評家がそなえていることは、かれがまず漱石を選んで出発したという事実にてらしあわせて、ぼくはそれを信頼したいのです」

柄谷 へえ。そんなこと言ってたの(笑)。当時、大江さんはずいぶん年上だと思っていたけど、いま思えば、それはデビューが早かったからで、実は僕とそんなに年が変わらない。7歳違うだけ。このときだって、彼はまだずいぶん若いでしょう?

――大江さんは34歳、柄谷さんは27歳。ちなみに、江藤さんもまだ36歳です。

漱石はすごいやつ

――受賞作は漱石論です。大江さんもそこに意味を見いだしていますが、夏目漱石は中学生のころから好きだったとか。

柄谷 読む分には、小学生のころから読んではいた。『坊っちゃん』とか、『我が輩は猫である』とか。

――『我が輩は猫である』は、人間社会への皮肉たっぷりで、大人向きという感じもします。

柄谷 でも、子どもでも書いてあることはわかるよ。「我が輩は猫である。名前はまだない」……。ただ、体系的に読んでいたわけではないですからね。どの作品が好き、ということもなかったんだけどね。

千駄木の自宅での夏目漱石
千駄木の自宅での夏目漱石

――なぜ漱石を選んだんでしょうか。

柄谷 好きだったということもありますが、当時は漱石について論じる人があまりいなかったのもありますね。そんなにメジャーな主題じゃなかったんですよ。

――そうなんですか。江藤淳のデビュー作『夏目漱石論』(1956年)、「初版へのあとがき」では「漱石についてはもうすべてがいいつくされている。今更なにをいってもはじまらない。というのがおそらく今日の通説である。しかしこのような通説ほど、ぼくにとって理解しがたいものはなかった」と始まります。

柄谷 もちろん、江藤淳の前にも、いろいろな人が漱石について書いていた。しかし、戦前はともかく、戦後では、漱石は文学的にすごいやつだとは考えられていなかった、と思います。それは、戦後の日本では、フランス文学が栄えていたことと関係がある。漱石は英文学者でしたからね。だから、古いとみなされていたし、彼の「文学論」も重視されなかった。特に、昭和以後は、小林秀雄に代表されるように、仏文学が偉い、という雰囲気があったのです。
漱石についての評伝や文学研究はあったのでしょうが、批評として、漱石のことをきちんと論じたのは、江藤淳が最初じゃないかと思う。その前に福田恒存がやっていたかな。いずれにせよ、江藤も福田も英文系だった。その次に漱石を論じたのが、僕なんです。ただし、僕の場合、英文、仏文のどちらとも関わりがあったけど、どちらかだけということはなかった。それに、ドイツ系の哲学にも凝っていた。たとえば、僕の修士論文は、イギリスの作家ローレンス・ダレルの小説(『アレクサンドリア四重奏』)を、ヘーゲル哲学から見直すというようなものでした。

――江藤の『夏目漱石論』は、文豪としてのイメージを打ち崩そうという意思を感じます。ただ、現役時代の漱石は朝日新聞で新聞小説を書いていて、娯楽の側面が強かったのかもしれないですね。

柄谷 そうですね。僕自身も子供のころから、漱石の作品を娯楽として読んでいた。それが一般的でした。むしろ、漱石は江藤淳が論じて以後、だんだん偉くなったんだよ。

破綻からつながる他者

――受賞作「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」の鍵は、漱石が多義的に使った「自然」という言葉ですね。自意識の「外部」あるいは「他者」について考察する論考でもあると思います。

柄谷 漱石の「自然」も、言葉の定義を超えて、文脈によって意味が変わるようなものですね。文学的なものには、そういう傾向があると思う。
漱石の小説では、しばしば三角関係が登場しますよね。当時は、自意識の葛藤とか倫理的問題意識に共感して読む人が多かった。今もそうかもしれません。しかし、そういう読み方は、僕は薄っぺらいと思った。というのも、たとえば、『門』では、主人公の宗助は三角関係の倫理的な問題で悩んでいて、妻の元恋人から逃げるように禅寺に行って、何も悟れずに帰ってくる。要するに、三角関係の問題を放り出してしまう。かなり唐突な展開なので、この作品の欠陥だとされてきました。江藤淳もこれを「他者からの逃亡」と呼んで批判した。しかし、確かにこれは小説の構成としては破綻に終わったと思いますけど、むしろこのような破綻にこそ、漱石が他者とつながる回路が見出される。それが、漱石の作品が後世まで残っている理由だと思ったのです。

夏目漱石が住み、『我が輩は猫である』を書いたとされる東京・千駄木の家は、愛知県犬山市の博物館明治村に移築されている。この住宅には漱石の前には、森鷗外も住んでいたことがあるという
夏目漱石が住み、『我が輩は猫である』を書いたとされる東京・千駄木の家は、愛知県犬山市の博物館明治村に移築されている。この住宅には漱石の前には、森鷗外も住んでいたことがあるという

――破綻しているのに?

柄谷 本人が自覚している悩みと行動とがうまく釣り合っていなくて、悩みは、当人の自覚に反して、どうも三角関係そのものとは違うところにあるのではないか、と思わせる。『こころ』で、先生が自殺してしまうことにも、『行人』や『それから』にも同じような問題があります。つまり、漱石が描こうとしたのは、「自分ではどうしようもないこと」にとらわれた人間ですね。それが漱石の言う「自然」にかかわる。もともと「自然」というのは、人間の外にある草木のようなものだけじゃなくて、人間の内側にもあったものなんですが、近代になると、それが忘れられてしまった。

――近代には、人間は自分の意思で自分自身を制御できるという幻想があったわけですね。『戦後思想の到達点』での大澤真幸さんと対話でも触れていますが、「意識と自然」での柄谷さんは、漱石の『行人』にある「頭の恐ろしさ」と「心臓の恐ろしさ」という言い回しに注目しています。

柄谷 僕が言っているのは、「頭の恐ろしさ」というのは頭で考えるような倫理的な問題で、「心臓の恐ろしさ」というのは、身体的な存在そのものに関わる存在論的な問題だということですね。言い換えれば、漱石の小説は、外側から見た〈私〉と内側から見た〈私〉の二重構造になっている。そして、倫理的な問題を存在論的に、存在論的な問題を倫理的に解こうとして混乱しているのです。〈私〉というものは、外側から見た〈私〉と内側から見た〈私〉の両方を含んでいて、その二つは完全に一致することはない。そのズレにこそ、人間の存在の不思議を解く鍵があるし、漱石はそこに注目したと僕は思った。

――柄谷さんは、講談社文芸文庫版『畏怖する人間』の「著者から読者へ」で、60年代後半のことを振り返っています。時代状況と無関係な「自己」の問題が実在することを感じる一方で、私の意思に関係なく「世界」は実在して、私の意思までも世界の構造のなかにあるということのねじれや亀裂の中で書いていた、と。実存主義と構造主義の関係に置き換えて説明もしています。そして、こういった亀裂を漱石も抱いていたはずだ、と柄谷さんは主張しています。

柄谷 そうですね。ただ、60年代後半に共有されていた問題意識は、やっぱり1960年の安保闘争と関連しているんじゃないですか。前も言ったように、僕自身も安保闘争の過程で吉本隆明を知ったことで、文学批評に進んだ。大江健三郎、石原慎太郎、みんなそうなんだけど、この時期の政治状況と、それぞれ密接に関与していました。この時期、政治と文学は分離しては扱えないですよ。埴谷雄高なんかも含めて、文学、特に文芸批評が、前面に出ていた珍しい時代だった。吉本隆明の場合、戦争責任論や転向論、『共同幻想論』も、文学と政治を切り離さずに語っていた。というよりも、政治の問題を、文学を通して考えるようなところがあった。ついでにいうと、江藤淳も、出てきたときは左派だったんですよ。たとえば、『作家は行動する』(1959年)を書いていた。また、石原慎太郎も皆が思っているような人と違います。僕は若い頃、彼に呼ばれて飲みに行ったよ。遺族によれば、彼は最晩年に僕との対談を読み直していたらしい。思想的な立場は違っていても、僕に好意を持ってくれていたようです。

篠田英美撮影
篠田英美撮影

――漱石論から出てきた自意識の外部についての考察は、『探究Ⅰ』の「他者」、『探究Ⅱ』で論じた「単独性」などを経て、『力と交換様式』まで貫かれたテーマだという印象があります。

柄谷 そうですね。最近では、僕が文芸批評をやっていたと知らない人も多いんですが、僕に関心をもって昔のものを読んでくれる人は、そういう部分に注目するみたいだね。僕自身は昔の本を読み返さないし、過去を振り返ることもない。だけど、最近は、海外でも、僕が言ってきたことを理論的に論じる人たちが出てきたからね。こうなると自分は、本家本元だから、過去の自分のことなど振り返る必要がない、とはいっていられない。自分で自分の研究をしないといけない(笑)。
これは前にも言ったけど、どうも昔の仕事といまの仕事はつながっているんだね。以前は、まったく別だと思っていたんですけどね、見方が変わってきました。僕がずっとこだわってきた単独性や他者の問題は、個人の問題ではないと思うんですよ。言うなれば、人類の問題だと思う。それは、具体的にいうと、宗教の問題になりますね。それについては、これから、あらためて取り組もうと思っているところです。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は文壇で交流した戦後文学者について最近の気づきなど。月1回更新予定)

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