文学は永遠だと思っていた新人批評家時代:私の謎 柄谷行人回想録⑨
記事:じんぶん堂企画室
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――1969年6月号の「群像」(講談社)に「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」が群像新人賞受賞作として掲載され、本格的に文芸批評家としての活動に入りますよね。ここからの数年間はいわゆる文芸批評をたくさん書かれています。1972年の第1評論集『畏怖する人間』には、「漱石試論」をはじめ1969年から1972年に発表された評論が収録されていますが、年譜によると受賞後最初に発表したのは、「群像」69年11月号の「江藤淳論」でした。江藤さんはどんな存在でしたか?
柄谷 やはり、批評家としていい仕事をしている先行者、という感じですね。僕はそれ以前に五月祭賞に応募した「思想はいかに可能か」で、吉本隆明、三島由紀夫、江藤淳の3人を、思想の基本的なあり方として示したんだけど、それくらい大きな存在として捉えていたのは確かです。当時の批評家は、花田清輝や平野謙、小田切秀雄にしても、古い左翼との関わりが深い人ばかりだった。その点、江藤淳は新鮮でラディカルに見えた。当時はまだ保守派でもなかったからね。江藤さんとは、群像新人賞の授賞式で初めて会ったと思うけど、以来親しくなりました。
――作家や批評家と交流するようになって、いわゆる「文壇」に飛び込んだという印象はあったんですか?
柄谷 まあ、「これが文壇か」という感じは徐々にわかってきた。いまはどうかわからないけど、作家も批評家も案外きちんと文芸誌を読んでいるんですよ。小林秀雄とは会ったことがないんだけど、文芸誌の編集者によると、僕の書いたものをよく読んでいたらしい。だから、なにかの拍子に作家や批評家に会うと、「ああ、君か」という風になるんだね。福田恆存もそうでした。
だから、今考えると知り合いが多かった。たとえば、意外かもしれないけど、辻井喬とか、高橋たか子ともつきあいがあった。大庭(みな子)さんはよく電話してきたな。僕が群像新人賞を受賞したときの選考委員だった安岡(章太郎)さんとは、普段会うことはなかったけれど、文学賞のパーティーなんかで顔を合わせるでしょ。そうすると、待ち構えてるんだ。「ああ、柄谷君」とかいって、話しかけてくる。そして、マルクスのことなんかを聞いてくるんだよ。
しかし、僕が文芸批評の仕事を始めて親しくなったといえるのは、吉本隆明や江藤淳だった。さっきも言ったように、この2人と三島由紀夫には、特別な存在感がありましたね。ただ、三島は、僕が群像新人賞を取った翌年に自殺してしまった。もし生きていたら、彼とも親しくなっただろうと思いますよ。
――『畏怖する人間』には「閉ざされたる熱狂」(71年3月発表)という古井由吉論も収録されていますね。初めて同時代の作家についてまとまったものを書いたのが古井さんだったとか。
柄谷 古井由吉と“内向の世代”については改めて話しておきたいことがあります。たぶん、古井さんと初めて会ったのは、芥川賞の授賞式の後じゃないかな(1971年に「杳子(ようこ)」で芥川賞)。そのとき江藤さんがスピーチしたのを覚えている。実は、古井さんについてはその前から知っていた。68年に彼が同人誌に書いた最初の小説「木曜日に」を読んでいたのです。それは中上健次に勧められたからです。69年に僕が群像新人賞をとる直前でした。その作品を読んだとき、いい、と思った。
古井さんは、内的な考察から始めて、それをエッセー的に書いていく。そして、いつの間にか普遍的な構造をつかんでくる。自己から出発して、社会の“底”に達する。人が見ていないものを見出す。それは、普通の小説家には出来ないことですよ。僕は中上健次についてよく論じてきたけど、自分が近いと感じたのは、むしろ古井由吉の方でした。中上は根っから物語の人ですが、古井さんはいわばエッセーの人だった。エッセーには“試み”という意味もあります。僕自身もそういう仕事をしているという気持ちがあった。だから、同じ文学世代だという意識が最初からありましたね。
――柄谷さんは古井さんが亡くなったときに朝日新聞に寄せた談話でも、「閉ざされたる熱狂」を書きながら、「自分の居場所がわかった気がした」とお話しされていました。
柄谷 古井さんが注目された時期、小田切秀雄が“内向の世代”ということを批判的に言い始めた。こういう言い方をしています。「自我と個人的な状況のなかにだけ自己の作品の真実の手ごたえを求めようとしており、脱イデオロギーの内向的な文学世代として一つの現代的な時流を形成している」(東京新聞夕刊1971年3月23日)。これは、現実の政治や社会の動きを見ずに、内にこもって書いているという批判です。僕はこのとき、古井さんを擁護する文を書きました(「内面への道と外界への道」、東京新聞夕刊1971年5月9、10日)。小田切さんは、戦前の時代を左翼として生きた人たちの標準的な考え方なんだと思います。
《小田切秀雄は、1916年東京生まれの文芸評論家。若いころから、マルクス主義に傾倒し、戦中には思想犯として逮捕された。戦後は、本多秋五、平野謙、埴谷雄高、荒正人らと「近代文学」を創刊。途中で脱退し、新日本文学会の設立に加わった。高村光太郎、吉川英治ら高名な文学者たちの戦争責任を厳しく追及した》
柄谷 古井さんの小説は確かに内的なものだから、“内向の世代”というのは、ある意味で当たっている。しかし、それは政治・経済的な現実を無視することではない。むしろ、政治・経済的な“現実”を、“内側”からつかもうとするものです。そして、このような観点は、確かに、“世代”と切り離せない。実際、“内向の世代”とは、戦前・戦後の時代を、子どもとして経験した世代だといっていいと思います。子どもというのには、幼児から小学生までふくまれます。石原慎太郎、大江健三郎などは、小学生として戦時期を経験した。そして、それに立脚して考えた。しかし、それより年少の人たちも戦争を経験したし、そこから考えていたのです。
――古井由吉は1937年生まれですね。“内向の世代”と呼ばれたのは、古井の他、後藤明生、黒井千次など。1930年代の生まれが大半です。柄谷さんは、「閉ざされた熱狂」で、古井さんの小説「雪の下の蟹」について、空襲のイメージで書かれていると指摘していますね。
柄谷 「雪の下の蟹」は、直接に戦争を描いたものではありません。でも、古井さんは空襲を見ていたわけで、その体験が大きくなったあとも残っている。子どもにどう世界が見えていたかが、そこに反映されている。
自分のことで言えば、僕は戦争が終わった1945年8月の時点で、満4歳になったんですよ。僕が住んでいた尼崎では、空襲もあって、夜中に起こされて防空壕に入ったり、近所に燃えているところを見に行ったりした。そういう生々しい現場にいたことはいた。そして、4歳の誕生日には、広島に原爆が落とされた。そのことは後で知ったわけですが、僕も、子どもとして戦争を経験したんですよ。
“内向の世代”について、改めて考えてみたんだけど、“内向”というのは、社会的現実から内面に向かうことではなくて、社会的現実を子どものあり方・見方から見るということなのではないか。子どもの場合、いつかは戦争に行くんだという気持ちがあっても、実際に戦地に行ったり明日にも召集令状が来たりするような大人とは、戦争に対してとる態度が異なる。しかしそれで、子どもが世界を見てないわけじゃない。見ているんですよ。そして、子どもの方がそこで起きている現実をよく見ていることもある。そのような優れた子どもの一例が、大江健三郎ですよ。
――大江健三郎は、ふつう“内向の世代”には含まれませんが、1935年生まれですから世代的には重なっていますね。
柄谷 彼は戦争中、小学生だった。そして、戦後に大人になってからも、ある意味で、子どものときに見ていたような見方で世界を見ていたと思います。これは幼稚だという意味じゃないですよ。それが大江健三郎の新しさであって、その点では石原慎太郎(1932年生まれ)もそうなんだ。
――まず戦争を経験しているかという切断があり、さらにどういう年代で戦争を経験したかという違いもあるわけですね。
柄谷 そういう意味で、内向の世代というのは、子どものころに“戦争経験”をした世代だといってもいい。彼らは、戦後生まれの団塊の世代以後にはなくなってしまうような、固有の洞察力を持っている。だから、“内向の世代”でいいんだ、というのが僕の考え方です。内向というのは、ものを見ないことではなく、通念とは異なる観点からものを見ることです。それは、前世紀の終わりから僕がずっと論じてきた、「交換様式」から社会史を見るということとも共通するんですよ。
柄谷 ただね、小田切さんはともかく、僕が長く好感を抱いているのは、“戦後派”の文学者ばかりなんですよ。それは、戦後文壇に登場したけど、戦前にすでに大人であった人たちですね。埴谷雄高とか武田泰淳、花田清輝……。一方、“戦中派”とは、戦争中に青年期を迎えた世代ですよね。
僕の家族で言うと、親父は“第一次戦後派”と同じ世代で、かつ左翼だった。一方、父より15歳くらい年下だった叔父は、“戦中派”です。彼は戦死してしまいました。そこから考えてみると、戦後文学というのは、第一次戦後派です。そして、それに対して、吉本隆明、谷川雁、などの“戦中派”がいた。そのあとに、石原慎太郎や大江健三郎の世代が出てきた。さらに、そのあとに、いわば“内向の世代”が出てきた、といえる。
――戦後派の作家はよく読んでいたんですか。
柄谷 武田泰淳や埴谷雄高に関しては、はじめからいいものだと思ってきちんと読んでいました。個人的なことでいえば、彼らは僕の親父と同世代ですね。それもあって、いいイメージがあるんだね。一方、学徒動員で戦死したおじさんの方は、思想的にはとくに何もない。残した蔵書にもろくなものがなくてね、生きてたら喧嘩になってたと思う(笑)。考えてみると、彼は、吉本隆明のような戦中世代なのです。ただ、戦後文学の人たちが僕の父親の時代の人だったということを感じるようになったのは、むしろ近年ですね。
そのことに気づいた一つのきっかけは、大江健三郎の『戦後文学者』という本が再版されるというので、推薦文を頼まれたことなんです(『新装版 大江健三郎同時代論集6』岩波書店)。この本は、戦後文学の作家を論じたものですが、非常によかった。こんなものを書いている暇がいつあったんだ、というか、こういうのは大江さんはやらないだろうと思うような仕事をちゃんとやっていたから。たとえば、吉本隆明は、戦後派文学を仮想敵としていました。しかるに、大江さんの『戦後文学者』には、戦後派文学に対する敵対心がまったくない。僕はそのことに気づいて、その理由を考えてみたけど、それで彼が戦時中に田舎の子どもだったということに、あらためて気づいた。
――柄谷さん自身、戦後派の文学者とは実際に交流もあったんですか?
柄谷 僕は彼らに好意を持っていたけど、戦後派の人たちの方も僕に好意を持っていてくれたと思う。彼らと僕は、ちょうど父親と息子の世代だったんですね。平野謙や埴谷雄高は、僕に対してすごく優しかった。丸山真男もそう。大西巨人も、武田泰淳もそうでしたね。未亡人になった武田百合子さんが、泰淳が僕についていろいろ言っていたことを教えてくれた。それに花田清輝も、口が悪くて誰のことでもボロクソに言うので怖がられていた人だけど、僕のことは褒めていたらしい。それを聞いたときはうれしかったな。
埴谷さんとは、90年代に2人だけで話したことがある。そのとき、彼から聞いたのは平野謙の話です。平野さんが、僕が書いた何かを初めて読んで、興奮して電話してきたんだって。面白いやつが出てきた、と。以前に吉本隆明が出てきたときも、そういう電話をかけてきたそうです。思い返すと、年齢や所属をこえた交流があったこの時代を懐かしく思います。
――デビュー当時の柄谷さんは、埴谷に対しても結構厳しいですよ。
柄谷 もう何を書いたか忘れたよ(笑)。でも、埴谷さんがそれで怒ったという記憶はない。しかし、だいたい、無視されるのが一番つらいんですよ。好き放題に書いていたのは、当時、お互いの間に、文学に対する信頼があったからでしょうね。あの頃、文学というのは、永遠だと思っていた。作家も批評家もそうだったと思う。1千年先を考えた上で、いま何を書くかということを考えていたんですね。政治とか科学だけでは捉えられない、文学にしか見えないものを見ようとしていたんじゃないかな。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回はひょんなことから訪れた米国行きの話など。月1回更新予定)