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くじ引きで拓けた望外の道 34歳でイェールの客員教授に:私の謎 柄谷行人回想録⑩

記事:じんぶん堂企画室

秋めく自宅付近を歩く柄谷行人さん=篠田英美撮影
秋めく自宅付近を歩く柄谷行人さん=篠田英美撮影

――今回は、柄谷さんにとって大きな転機となった1975年の渡米についてお聞きしたいのですが、その前段として73年発表の「マクベス論」(『意味という病』収録)の頃から始めたいと思います。『意味という病』の「第二版へのあとがき」に、「私にとって最も惨めだったのは、『マクベス論』を書いてからの数年間であったといってもよい」「私はもはや文芸評論を書く気がまったくなくなっており、すぐに(なぜか)マルクス論にとりかかったのだが、いっこうに書けなかった」とありますね。

柄谷 60年代は、新左翼の運動が盛り上がった時代です。それが終わったということを示すような事態が、60年代から次々とおこった。その極みの一つが、連合赤軍事件(1971~72)です。僕はそれについて直接言及したことはないけど、「マクベス論」を書いたとき、この事件が念頭にありましたね。たとえば、こう書いています。

 《事件はもともとどんな現実的契機も根拠もなく、彼らにとりついた「必然性」の観念から生じた。人が観念をつかむのではなく、観念が人をつかむ。ひとが観念をくいつぶすのではなく、観念がひとをくいつぶす。そういう秘密を『マクベス』の冒頭ほどよく示しているものはない》。《彼(引用者注:マクベス)が最後に抜け出たのは、いわば「悲劇」というわな、自己と世界との間に見せかけの距離を設定した上で和解へと導くそのからくりにほかならない、彼は「悲劇」を拒絶する。だが、「悲劇」を拒絶することさえをも、われわれは「悲劇」的と呼ぶべきだろうか。あるいはそうかも知れない。しかし、そうだとしたら、われわれに「悲劇」を脱却する道がないということは確かなように思われる》

管理人の妻を人質に、浅間山荘に立てこもっている連合赤軍に対して、心理効果をねらって照明弾(右端)が打ち上げられた。中央が浅間山荘、左下は警戒に当たる機動隊員=1972年2月23日、長野県北佐久郡軽井沢町
管理人の妻を人質に、浅間山荘に立てこもっている連合赤軍に対して、心理効果をねらって照明弾(右端)が打ち上げられた。中央が浅間山荘、左下は警戒に当たる機動隊員=1972年2月23日、長野県北佐久郡軽井沢町

文芸誌の穴埋めだった「マルクスその可能性の中心」

――「マクベス論」の直後に書きあぐねていたというマルクス論ですが、74年に文芸誌「群像」(4~9月号)で連載される「マルクスその可能性の中心」は柄谷さんの代表作の一つと言ってもいいと思います。

柄谷 それには“いわく”があってね。その頃、ある女性の流行作家の言行を巡って、純文学系の作家や批評家らが怒って、「群像」には書かない、ボイコットする、と言い出した。それで「群像」が困って、その穴埋めとして、僕のところに「何か書いてくれ」と話が来たんです。だから、「群像」に載ったことも、偶然なんだ。普段なら、こんな内容の連載はありえない。それからしばらくして、『月山』で知られた芥川賞作家、森敦さんが、「意味の変容」という哲学的な長編作品の連載を始めたのですが、こういうものが文芸誌に載るというのは、僕のマルクス論から始まったことかもしれないな。

――確かに、マルクスで文学を読み解くのではなくて、マルクスそのものの読解ですものね。当時としては文芸誌に載るのは珍しかったのでしょうか?

柄谷 当時の文芸誌では、そんなことをするやつはいなかった(笑)。だからまあ、新しかったとはいえます。しかし、僕が文芸誌での連載を望んだわけじゃない。だけどともかく、マルクスの“可能性の中心”というのは、皆が中心だと思っているところにではなく、マルクス主義の“周縁”にある。そして、マルクス主義の“終焉”とともに、それがあらわになる(笑)。そういう意図がこめられたタイトルでした。

――「マルクスその可能性の中心」(講談社学術文庫)の序章で柄谷さんはこう書いています。「マルクスを知るには『資本論』を熟読すればよい。しかし、ひとは、史的唯物論とか弁証法的唯物論といった外在的なイデオロギーを通して、ただそれを確認するために『資本論』を読む。それでは読んだことにはならない。“作品”の外にどんな哲学も作者の意図も前提しないで読むこと、それが私 が作品を読むということの意味である」。マルクス主義=史的唯物論と理解されがちですが、柄谷さんは、東大経済学部で宇野派経済学を勉強されたことで、独自のマルクス認識をもたらしたと語ってこられましたね。
※試験勉強でつかんだマルクスの「本領」:私の謎 柄谷行人回想録⑤

柄谷 1960年代の東大経済学部では、宇野派のマルクス経済学が必修で、官僚になる人も大企業に行く人もそれを学んだ。そこでいい成績を取れば大蔵省にも三菱銀行にも行ける、というような感じだったんですよ。そんな“マルクス”はないだろう、と思うけど(笑)。
しかし僕も、宇野派の経済学を勉強して、初めて『資本論』が何を見ようとしていたのかがわかった。それが見出すのは、物の交換がもたらす、観念的な力(物神)です。それは、生産力とは異なる「力」です。それを考えようとしたのが、『マルクスその可能性の中心』です。ただ、連載時点では、気づいていないことも多かった。いま文庫で読めるものは、アメリカに行ったことで分かったことがかなり反映されていますので、この話は改めてしましょう。

考えてもいなかった海外での研究 きっかけはくじ引きの誘い

――そして75年にはいよいよ渡米するわけですが、前述の『意味という病』の「第二版へのあとがき」では、「文芸ジャーナリズムのなかで仕事をしている間、私は惰性をたち切ることができなかった。私はその間、ひそかに根本的な「切断」の時を待っていた。それは具体的には外国へ行くことにほかならなかった」とあります。
 
柄谷 1973年初めに『マクベス論』を発表した後、外国に旅行しようかと漠然と考え出したんです。そして、実際に73年の夏、1カ月間ほどヨーロッパに旅行しました。インドでトランジットして、ドイツのフランクフルトに滞在し、パリ、ローマを経てギリシャに行った。これらの都市に、とくに行きたかったというわけではないんです。大体海外旅行の手配を自分でするなんて、できない。「どないすんねん」です(笑)。
それが偶然、ルートや日程のアドバイスをして航空券を手配してくれる人に出会って、実現した。実はその人は、柳田国男の親戚だったんです。彼は、旅行代理店に勤めていました。ともかく、このヨーロッパ旅行の経験は、その後、役に立ったと思います。

――75年の秋、34歳の若さで米国のイェール大学に客員教授としてわたります。

柄谷 まったくの偶然です。 74年の秋だと思いますが、市ヶ谷にある法政大学の門のところで、教養部の同僚の河野(徹=英文学者)さんから呼び止められて、こう言われたんですよ。「これから在外研究のくじ引きがあるけど、君は行かないの?」って。僕は何も知らなかったんだけど、「じゃあ、僕も行きます」と答えてその足で一緒にくじを引きに行った。在外研究に行くことは、それまで特に考えたことはなかったので、何となくついて行っただけだった。会場に行ってみたら15人ほど希望者がいたんだけれど、何とそのなかから僕と河野さんの2人だけがくじに当たったの。

イェール大学のキャンパス© 2021,Yale University, Dan Renzetti 
イェール大学のキャンパス© 2021,Yale University, Dan Renzetti 

――まったくの偶然というのはそういうことですか。くじを引いた時点では法政大の助教授で、4月に教授になりますが、イェール大にはどういう経緯で?

柄谷 くじに当たったはいいけど、行き先は自分で探さなきゃいけない。それからまもなく江藤淳に会ったとき、「在外研究が決まったのですが、どこがいいですかね」と聞いた。

――江藤さんは若い頃プリンストン大学に留学していますね。

柄谷 こういうことには詳しいだろう、と思って聞いたんですよ。江藤さんは、「じゃあ、近々、日本にイェール大学のマクレラン(エドウィン・マクレラン=英国の日本文学研究者、夏目漱石の英訳などを手がけた)が来るから、紹介する」といってくれた。そのマクレランと会って話したんですが、楽しかったですね。言葉でも、まったく困らなかった。日本語ができる人だからね。彼は、母親が日本人で、自分も神戸育ちだから、関西弁なんだ。彼も僕を気に入ってくれたようで、おそらく江藤さんが予想していた以上に評価された(笑)。それで気がついたら、彼の手配で、イェール大の客員教授として、日本文学を教えることになってた。

――在外研究の話だったのに、いつの間にか客員教授に? そんなことあるんですか?

柄谷 どの作品だかは分からないけど、僕の書いたものを読んで、マクレランが強く推薦してくれたんだろうと思う。江藤さんも、僕が教授になることには驚いて、ちょっとうらやましいという感じだった(笑)。金銭面でも、法政大学から給料と研究費用が出るだけじゃなくて、イェール大学からも給料が出るんだからね。もともと僕は、客員研究員になるつもりでいた。在外研究では、それが普通だから。研究成果を要求されることもないし、好きなことをやればいいから、気楽だと思っていたんです。だけど、教えるとなると大変じゃないですか。とくに教授になると分かった時期が遅かったので、苦労しました。

慌てて始めた研究が名著誕生の起源に

――75年の9月から客員教授になっていますが……。

柄谷 そのことを知らされたのが、その年の4月くらいだった。だから、それから急きょ、近代日本文学についての研究を始めることになった。(笑)

――夏目漱石や現代日本の作家については論じていたわけですが、日本近代文学については体系的に学んだというわけではなかったんですよね?

柄谷 ええ。全くの無知ではないにしても、人に教えられるほどではなかったですね。そもそもアメリカ人に近代日本文学について教えるには、どうすればいいだろう、というところから考えなければいけなかった。一応、中村光夫の『明治文学史』なんかを読んではいたけど、そうしたものをそのまま教えるということではいやだし。だから、いろいろと考えることになった。それで授業のために用意した草稿が、「風景の発見」や「内面の発見」のような論文の原型となったのです。そして、それらをもとにして書いたのが『日本近代文学の起源』という本です。しかし、イェール大学の講義の時点では、この本にあるような考えは十分に展開されていなかった。全部をこのときに考えたわけじゃなくて、むしろその後に徐々に発見していったんです。ちなみに、この時僕が教えたクラスに、日本人が1人いました。後に作家になった、水村美苗さんです。

恐れられていた世界的批評家に引き合わされて

柄谷 それから1年後に、また思いがけないことがあった。それは、イェール大学のポール・ド・マン教授に出会ったことです。

《ポール・ド・マン(1919~83)はベルギー出身の批評家。脱構築の手法で知られるイェール学派の中心人物として、文学批評だけでなく思想界にも大きな影響を与えた。主著に『読むことのアレゴリー』など》

ポール・ド・マン『ロマン主義のレトリック』(山形和美、岩坪友子訳、法政大学出版局)
ポール・ド・マン『ロマン主義のレトリック』(山形和美、岩坪友子訳、法政大学出版局)

――ポール・ド・マンと柄谷さんの交流は知られていますが、どういうきっかけですか?

柄谷 この出会いも偶然です。イェール大学で、僕は同年で気鋭のシェークスピア学者ハワード・フェルバリンと親しくなったんだけど、彼が僕にド・マンに是非会えって言うんです。その頃はド・マンなんて知らなかったから、「誰?」って思ったけどね。あわてて大学生協に著作を買いに行ったくらいで(笑)。だけど、フェルバリンはド・マンを畏怖していて、すごいすごい、って言うわけ。ところが、会うことが決まったら、「あの人は怖いよ」とさんざん脅すんだよ(笑)。「厳しい人で、口が悪いから、酷評されるはずだけど、誰にでもそうするんだから、気にしないように」って。
だから、僕も会うのは嫌だったんだけど、実際に会ったら優しかった。もちろん、最初から認められていたわけはなくて、「君の書いたものを読ませてくれ」と言われた。フェルバリンは、「読ませたら、ひどい目にあう可能性がある。それでも読んでもらった方がいい」と(笑)。しかし、その後が大変でしたよ。日本で雑誌に連載しただけでまだ本になっていなかった、「マルクスその可能性の中心」という評論を圧縮して翻訳することになったからです。
それで僕は、76年の春に日本文学の講義が終わった後から、その作業を本格的に始めた。英文学者だった当時の妻、真佐子(旧姓原、のちに作家の冥王まさ子)の助けを借りて英訳し、さらに、さっき言ったフェルバリンやその仲間が一丸となってその英語を点検してくれた。論文の題は、”Interpreting Capital”とした。『資本論』を読む、とか、解釈する、というような題ですね。それを、ド・マンに渡しました。それから間もなく、彼から会いたいという連絡が来た。待ち合わせたカフェの入り口に立って待っていたら、向こうからド・マンが笑顔で歩いてきた。そして僕の草稿を、頭の上にかざしてヒラヒラさせながら、Vサインをして「good!good!」って言うんだ。

「振り返ってみれば偶然ばかりだった」と語る柄谷さん=篠田英美撮影
「振り返ってみれば偶然ばかりだった」と語る柄谷さん=篠田英美撮影

――さんざん脅されていたにもかかわらず。

柄谷 フェルバリンは、英語の手直しを一生懸命やってくれたんですけど、それでも僕がボロクソに言われることは免れえないと思ってたんだろうね(笑)。だから、本当にびっくりしたようでした。さらにド・マンからは、自分のやっている雑誌に僕の論文を載せたい、と言われたんだ。嬉しかったけど、そのあと気が変わった。それで、雑誌の編集長から掲載について電話がかかってきたときに、断ってしまった。直したいと思ったからです。ド・マンは「このままでいいのに」といって残念がってくれたけど、「いや、直します」と。評価してもらったとはいえ、僕の方では、ド・マンの本を読んだために、これまでの自分の仕事が不十分に思えてきた。構造主義・ポスト構造主義の理論を勉強し出したのは、その後です。
「マルクスその可能性の中心」が単行本になったのは、日本に戻ってからです。アメリカで学んだこと、考えたことを盛り込んで、大幅に加筆しました。“周縁”に“可能性の中心”があるという発想は同じでしたが、そのアプローチは変わった。これまでとは違う視点から、『資本論』について考えるようになった。その時点で、僕が気づいたのは、『資本論』が、マルクス主義=史的唯物論とは異なる観点から書かれている、ということです。『資本論』には、生産様式とは異なる見方がある。僕がそれを“交換様式”と名づけたのは、それから20年以上たった、20世紀の終わりです。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、イェール学派と柄谷さんの関係、マルクス論の展開など。月1回更新予定)

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