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対貧困政策の道標――ルース・リスター著『新版 貧困とはなにか』(堅田香緒里)

記事:明石書店

ルース・リスター著『新版 貧困とはなにか』(明石書店)
ルース・リスター著『新版 貧困とはなにか』(明石書店)

 本書『新版 貧困とはなにか』は、イギリスを代表する社会政策学者のルース・リスター(Ruth Lister)によって書かれたものである。「新版」とあるように、2004年に出版された初版を加筆修正する形で2021年に改訂出版されたものである。初版・新版ともに監訳を担当している松本伊智朗が、初版が出てから実に17年後の改訂出版ということを受けて、「本書が基本文献として長く読まれていることの証」であると記しているように、もともと本書の初版本は長期にわたってイギリス国内外で高く評価されてきた。この新版は、コアの部分については初版を引き継ぎながらも、その後のイギリス国内外の貧困をめぐる様々な研究や実践の知見を幅広くレビューし、それらを踏まえたうえで大幅に加筆修正されており、初版に馴染みのある読者にとっても大変読み応えのある一冊となっている。

 著者のルース・リスターは、もともと1971年から1987年まで、イギリスにおいて古い歴史をもつ民間の市民団体「チャイルド・ポバティ・アクション・グループ(Child Poverty Action Group)」に勤務しており、貧困に関連する様々な政策提言を行っていたことでよく知られている。その後、イギリス国内のいくつかの大学で教育・研究に従事している間も、様々な市民団体や委員会の顧問として活動を続けてきた。現在は、ラフバラ大学名誉教授であると同時に、貴族院議員(労働党)として、引き続き対貧困政策をはじめとする社会保障関連政策の形成にコミットし続けている。このような、貧困をめぐる実践と研究を往復するような非常にユニークな著者の研究姿勢は、本書にも十分に反映されているといえよう。

 貧困について書かれた本はたくさんある。そのなかで、本書のオリジナリティはおよそ以下の三つに整理することができよう。

 第一に、貧困の概念を重視しているという点である。まず著者は、貧困の三側面、すなわち概念、定義、測定基準を区別することの重要性を指摘する。ここで概念は貧困の意味――貧困者にとっての意味と、非貧困者にとっての意味の両方を含む――、定義は貧困と非貧困とを区別するもの、そして測定基準は貧困の定義を量的に操作化したもの、とされる。このように区別すると、従来の貧困研究における次のような問題が明確になる。それは、貧困の測定基準やそのための定義に関心が偏重し、概念が無視されがちであった、という問題である。これに対し著者は、定義や測定にばかり注力することは、「近視眼的で技術官僚的なアプローチ」に陥りかねないと指摘する。そこで貧困は単なる「数値」となってしまい、貧困がどのように経験され理解されているのかといった「貧困の意味」が見失われかねない、というのだ。著者は言う――「(貧困について:筆者加筆)深い理解を得ようというのであれば、概念のレベルに適切な注意を払わなければならない」。

 第二に、貧困当事者の経験に由来する<知>を重視している点である。これは、貧困をめぐる調査や理論がこれまで依拠してきた伝統的・専門的な<知>とは異なる、新たな<知>の可能性をひらくものである。貧困について非貧困者が書くということは、「当事者を黙らせ」、そして「対象物として扱ってしまいかねない」行為でもある。著者は、「善意からにせよ悪意からにせよ、(貧困当事者を単に:筆者加筆)『受動的な思いやりの対象』として扱」うような議論は、貧困問題の「解決どころかむしろ『問題の一部』となってしまう」というデイヴィッド・ピアショによる警鐘を真摯に受け止め、専門的な<知>の行使のもつ倫理上の問題について反省的に問い直す。そのうえで、貧困当事者の経験に由来する<知>をいかに記述するかに注力し、本書全体を通して、これら二つの異なるタイプの<知>の統合を試みている。

 そのために著者が採用するのが、<南>の貧困に対するアプロ―チおよび貧困当事者のエイジェンシーの視点である。順にみてみよう。<南>では、貧困の理論化と調査に貧困経験者の視点を取り入れるために、従来から貧困当事者参加型の手法を採用してきた。だがそれは<北>の貧困研究においてはほとんど言及されてこなかった。これに対し本書は、<南>の貧困に対するアプローチを積極的に参照し、伝統的な<北>の貧困に対するアプローチを反省的に再構成しようとするものである。また、著者は、貧困当事者のエイジェンシーを重視する。貧困者は、物質的・構造的制約や文化的制約、あるいは言説による「他者化」等によって単に無力化させられているわけではない。むしろ、そうした困難な状況と交渉するようなエイジェンシーを様々なレベルで――日常生活レベルにおける<やりくり(やりすごし)><やりかえし>から、戦略的レベルにおける<ぬけだし><組織化>に至るまで――発揮している。本書は、貧困を生み出す構造的理由を見失うことなく、同時に、貧困状態にある人びとが生きた現実としての貧困に内在する屈辱やスティグマ、力の欠如、権利の否定等に様々な形で挑戦し、構造に働きかけていく姿勢を捉えることに成功している。

 第三に、貧困を理解するための理論的・政治的枠組みを提供している点である。本書では、貧困の物質的・構造的側面と同時に、象徴的・関係的側面をも包含するような貧困の概念化、そして、そうした概念化を通して立ち現れてくる貧困の政治の重要性が論じられる。具体的には、ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)の「再分配と承認の政治」をめぐる理論を発展的に展開する形で、貧困をめぐる社会正義のための闘いにおいては、再分配と承認、そして尊重(respect)が重要であることが論じられる。著者は、政治哲学において伝統的に理解されてきたアイデンティティ・ポリティクスの貧困の政治への適用は、根本的に再考される必要があるという。というのも、女性や「黒人」、障害者の政治が差異の承認をその要求に含み得るのに対し、貧困の政治においては、非貧困者との差異の承認ではなく、むしろ平等に扱われることが主要な要求となるからである。このため、承認に加えて尊重という視点が加えられているのである。

 本書は、貧困に関する研究および政策形成をめぐる膨大な議論を網羅・レビューしているという点で、初学者を含む幅広い読者にとって利用しやすいものとなっている。同時に、新たな研究上の知見を惜しみなく取り入れつつ著者独自の貧困理論を展開しているという点で、既に貧困をめぐる研究になじみのある読者にとっても有用なものとなっている。それはまた同時に、対貧困政策の方向性を検討する際にも有用な道標として活用することができるはずである。その意味で、貧困を理解し、貧困問題に取り組むことに関心を持つすべての人にとって、必読の一冊といってよいだろう。

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