ド・マン、デリダと語り合った日々:私の謎 柄谷行人回想録⑪
記事:じんぶん堂企画室
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――ポール・ド・マン(1919~83)との関わりについて、もう少し聞かせてください。ド・マンは、フランスの哲学者ジャック・デリダ(1930~2004)の“脱構築”を文学批評に展開してイェール学派の中心人物としてアメリカの文学界で大きな影響力を持つようになりますが、柄谷さんが渡米した1975年時点の実感としては、どうでしたか。
柄谷 まだイェールでも知る人ぞ知る存在ですよ。アメリカ国内で知られるようになっていくのは、80年前後じゃないですかね。僕は名前も知らなかった。だから、ド・マンに認められてうれしかったというのも、彼が有名だからとか何とかいうより、たんに批評家として優れた人だったからです。
当時のアメリカの批評の世界には、30年代から続くニュー・クリティシズムという流れがありました。これは英米文学系です。そこにド・マンらが出てきて、構造主義やポスト構造主義のようなヨーロッパの最新の思想、特にディコンストラクション(脱構築)を持ちこんだ。僕がアメリカにいたのは、ちょうどその頃だったんですね。
――デリダがイェールで教えるようになったのも同じ頃ですね。
柄谷 デリダも、別に有名だからイェールに来たわけじゃないんだ。フランスの大学の哲学の世界では、異端的なデリダは、嫌われて不遇だったんだよね。むしろ、イェール学派というか、アメリカでの流行を通じて、世界的に有名になったんじゃないですか。
《イェール学派は、イェール大学で教鞭を執ったポール・ド・マンを筆頭に、デリダの脱構築を文学理論に応用した批評家たち。ジェフリー・ハートマン、ジョセフ・ヒリス・ミラー、『影響の不安』で知られるハロルド・ブルームなど》
柄谷 当時はまだイェール学派というようなものはできてなかったんじゃないかな。たまたま、数人の傑出した人たちがそこに集まっていた。僕もその中枢に居合わせた。その意味では、それなりにイェール学派だったのかも(笑)。有名じゃなかっただけでね。
――ド・マンからどんな影響を受けましたか。
柄谷 考え方がガラッと変わったとか、そういうことではない。むしろ、同じようなことを考えていて、しかもそれを別の角度から精密にやっている人間がいたのか、という驚きがあった。彼の影響で、言語学などの新しい分野を勉強するようにもなった。
だけど一番大きかったのは、世界の読者を意識して書くようになったことかもしれないね。ド・マンから、英語の仕事を発表するように発破をかけられ続けて、自分の書くものが外国で読まれるという緊張を強いられることになった。その頃はまだ、潜在的に、ではありますけどね。
柄谷 それから、ド・マンに紹介されて知り合った人が2人いるんです。1人はフレドリック・ジェイムソン(アメリカのマルクス主義批評家・思想家)。彼はマルクス主義者だったし、最初からすぐに通じ合うところがあった。それから、デリダです。
――いずれも世界的な批評家・思想家ですね。ジェイムソンとは、何度か対談もされています。柄谷さんも論考を寄せた『アメリカのユートピア』という本もあります。
柄谷 ジェイムソンとはアメリカに行くたびに会う感じで、家に泊めてもらったりもした。英語で僕の本が出てからは、紹介の文章もあれこれ書いてくれた。2014年に『世界史の構造』の英訳が出版されたときには、デューク大学で僕についての学会まで開いてくれたんですよ。
――一方のデリダですが、95年にはワークショップで柄谷さんについて発表したこともあるんですよね。
柄谷 カリフォルニア大学アーバイン校で、5人ぐらいの学者が、それぞれ1人の学者を学外から招いて、かつその人を紹介する発表をする、という変わった企画があった。そのときデリダは、アーバインで教授をしていて、僕を紹介してくれたんです。僕のやっていることを知ってるのかな、と心配したけど、結構きちんと調べていて、とくに「エクリチュールとナショナリズム」という論考に的を絞って論じてくれた。さすがに勘所は押さえていたし、ダジャレまで連発していた(笑)。僕の論文は西田幾多郎と時枝誠記を脱構築と結びつけるものだったんだけど、「ニシダ、トキエダ、デリダ」とか言ってね(笑)。
――ところで、70年代の時点で、デリダはすでに日本でも知られていたのではないかと思いますが、身構えるようなことはなかったのでしょうか。
柄谷 ないですね。僕はちゃんと読んでいなかったし、よく知らなかった。それと、僕は偉い人には強い(笑)。
ド・マンからデリダを紹介されたのは、78年、アメリカを訪れていた僕が、ド・マンの授業を聴講しに行った際だと思います。
ある頃まで、日本ではデリダの顔写真が公開されていなかったんです。デリダはダリダ?っていうようなものでね(笑)。ブランショ(フランスの作家、批評家。写真を公開しなかった)と同じで、本人が拒否している、と言われていた。それである時ド・マンに、「日本で、デリダはバケモノなんじゃないかって言われてる」って冗談で話したことがあった。そうしたら「いや、そんなことはない。サッカーのコーチみたいな風貌の人だ」っていうんだ。ド・マンが亡くなって大分たってからデリダにその話をしたら、「本当にサッカーのコーチだったんだよ。若い頃、アルジェで子どもたちにコーチしてたから」って。だから当たってたんだよ。それで2人で笑ったね。
――3人はどんな関係だったんでしょうか。
柄谷 何年も間があくことはあったけど、僕がアメリカにいった時には、3人でカフェやレストランで話したり。ド・マンとデリダの2人ならフランス語で話すんでしょうけど、僕がいるときは英語です。デリダもあんまり英語がうまくないから、僕も気楽だった(笑)。
――やはり批評の話をするんですか?
柄谷 それもするけど、つまらない話もいろいろ。たとえば僕は、ド・マンはあまりアメリカで見かけないような顔の人だと思ってたんだけど、ベルギーに行ってみたら、ド・マンそっくりなやつがぞろぞろ歩いてきた(笑)。それをド・マンに伝えたら、「コージンがこんなこと言ってたんだ」って、デリダに嬉しそうに話していたとか。
3人で写っている写真があったんだけど、それはイェール大学の近くにあるカフェの入り口で撮ったもので、僕の当時の妻(冥王まさ子)が、是非写真を一枚撮ろうとちょっと強引に提案したら、受け入れられた。デリダの顔写真が公開されていなかった頃のことです。僕はなくしてしまったんだけど、その写真がデリダの書斎に飾られていた、と人づてに聞きました。ド・マンとデリダは本当に親しかったんだと思う。今回の記事に掲載する写真は、ちょっとした経緯があって、先頃ド・マンの娘パトリシアさんが送ってくれたものなんですが、同じときに撮ったものじゃないかな。となると、撮影したのはデリダかと思います。
――ド・マンは83年にがんで亡くなってしまいます。84年7月号の「群像」に発表したエッセー「ポール・ド・マンの死」(講談社学術文庫『差異としての場所』所収)を読むと、直前まで交流があったんですね。
柄谷 病気だと聞いていたし、悪い予感もあった。他方で、回復するだろうとも思っていた。83年にニューヨークに行ったときに家に電話をしたら、奥さんが出てド・マンに取り次いでくれた。10分くらい話したかな。調子は悪そうだったけど、近いうちに会おうと言ってくれたので、少し安心して電話を切った。亡くなったのは、その4日後だったと思う。医者の誤診で、本人も家族もそこまで悪いとは思っていなかったらしい。
――死後4年経った87年、ドイツ占領下のベルギーで、若き日のド・マンが親ナチスの新聞に反ユダヤ的な文章を発表していた、というスキャンダルが巻き起こりますね。具体的には、21歳当時、41年3月にベルギーの大手紙「ル・ソワール」に書いた「現代文学におけるユダヤ人」という記事の発見がきっかけでした。
《柄谷さんは88年に「現代思想」(青土社)のインタビューでド・マンについて語っているほか(「ファシズムの問題―ド・マン/ハイデガー/西田幾多郎」、ちくま学芸文庫『柄谷行人公演集成1985-1988 言葉と悲劇』所収)、2013年には「思想」(岩波書店)のポール・ド・マン特集に文章を寄せている》
柄谷 アメリカではすごい誹謗中傷でした。それでデリダは、ド・マンを擁護する論文を書きました(「貝殻の奥に潜む潮騒のように……ポール・ド・マンの戦争」)。実は僕は、ド・マンから彼のベルギー時代について直接聞いていたので、この事件は青天の霹靂ではなかった。
確かに、ド・マンに問題があったことは否定できない。しかし事件は、ド・マンの名声や成功に対するやっかみに発する面もあったと思います。じっさいそれでイェール学派も大打撃を受けた。
そもそも、問題の文章はドイツ占領下で書かれたものでしょう。日本の文脈にあてはめて考えてみてください。戦争中、あるいは戦前だったら、たとえば天皇制を批判する文章なんて出版もできないよ。それでも、捕まらない範囲で何とか抵抗する文章を書こうとした人たちがいた。そのなかに丸山真男もいたんだよ。彼は一高時代に講演を聴きに行って捕まり、特高に監視されながら、なんとか研究を続けた。書かれたことの真意を探るためには、字面だけを読んでいてもわからない。そういうことをするのが文芸批評でもあるでしょう。
――なるほど、抵抗の形はいろいろあり得ます。
柄谷 彼には、アンリ・ド・マンという叔父さんがいて、ベルギーのマルクス主義者でフランクフルト学派(30年代以降、フランクフルトの社会研究所に集まった思想家のグループ。ホルクハイマー、アドルノら)でもあった。僕はたまたま76年にイェール大の図書館でこのアンリ(ヘンドリック)・ド・マンの『社会主義の心理学』という本を読んで面白いと思ったんだけど、ド・マンにこの著者と関係があるのかと聞いてみたら、「叔父だ」と即答した。親しい間柄だったこと、ナチスに協力したとみなされて物議をかもしたことなどを率直に話してくれました。
アンリ・ド・マンの本は、スターリン主義時代にプロレタリア文化運動を厳しく批判しているもので、日本の思想家、例えば吉本隆明なんかに視点が似ていると思った。だから、日本でも、知識人の転向やファシズムへの協力の問題があったということなどを、ド・マンに話したんです。吉本の『芸術的抵抗と挫折』なんかを挙げて、日本では、戦争と知識人の関係を問う場が文学批評であったことや、自分の仕事もその流れのなかにあることを説明しました。だから、ド・マンもベルギー時代について、僕に話しやすかったのでしょう。
――ベルギーについて、他にどんなことを話しましたか?
柄谷 一つは王政の問題ですね。なぜベルギーではいまも王政が健在なのか。ド・マンを通じて考えて、分かったことがある。ベルギーは、フランス系とドイツ系と、フランドル系が合わさった国なんですね。民族的、宗教的一体性がない。何でまとまっているかといえば、王政によってです。王がいなくなったら、おそらく統一が保てなくなってしまうような国なんだ。王は、ただ存在していればいい。
――日本の象徴天皇制を思い出します。
柄谷 まさに象徴なんですよ。もちろん、日本の天皇制とは違う面もありますよ。だけど、この王の持つ意味については、考えさせられるところがあった。僕は後に日本について、“亜周辺”という地政学的な言葉を使って考察するようになったけれど、ベルギーも亜周辺なのかもしれない。
――『帝国の構造』などで展開されているように、亜周辺は文明の中心から隔たっていて直接支配は受けず、文明が選択的に摂取できる空間ですね。
柄谷 ド・マンが母国を離れて戦後のアメリカにやってきたのも、文学の“形式”にこだわって政治について直接語らなかったのも、ベルギー時代の政治的な経験から来るのではないかと僕は感じていました。だけど、ド・マンは過去を隠していたわけではないと思う。ベルギーの知識人が占領下でどんな問題を抱えていたか、アメリカでもフランスでも誰も関心すら持っていなかったから、そんなことをド・マンに聞くことはなかった。過去について聞かれれば、きちんと答えたと思います。現に僕にはそうしていたんだから。
死の直前にした電話で、まとまったインタビューをしたいと依頼をしたんですね。ド・マンは引き受けてくれた。聞こうと思っていたのは、まさにベルギー時代の問題でした。将来ド・マンは過去のことで糾弾されるかもしれない、という漠然とした不安を僕はもっていました。だから、彼の擁護になるような話をあらかじめ記録しておきたい、と思ったんです。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、『マルクスその可能性の中心』についてなど。月1回更新予定)