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生きる意味を哲学が問う意味とは?――『人生の意味の哲学入門』下

記事:春秋社

Pexelsのdominika-roseclayによる写真
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「人生の意味」研究にひそむ予断

 「人生の意味は何か?」という問いや「人生の意味」という字面そのものに、どこか不穏あるいは不遜なものがある、と言ったらあなたはどう思うだろうか。人生の意味を語ることそのものになにか胡散臭いイメージや場合によっては危険なものを感じ取る人がいても私は驚かない。「いったいどんな資格があって、何の目線からそんなことを語れるの」というわけだ。

 じっさい、近年の「人生の意味」に関する論文を読んでみると、意味ある生の典型例としてマザー・テレサやアインシュタインといった偉人が挙げられ、そうでない凡庸な生を生きている人は彼や彼女たちよりも「より少ない」意味しか持たない、ということを暗黙の前提にしているような記述に出会うことがある。凡庸な(あるいは「麻薬を買うために売春する」といった)人物像が提示され、それらと比べて偉人達の方が「より多い」人生だと判定できれば、「人生の意味」についての理論として第一段階はクリアである、ということだ。マザー・テレサやアインシュタインの功績を最大限認めたとしても、このような方法と帰結には不穏なものがある。

 もちろん、そうした方法で探求を進めているからといってそうした理論家が「人間の生をランク付けしたい」とか、より進んで「ある基準に照らしてこの度合いより下の人間は生きている意味がない」とか思っているとは限らない。しかし生の意味について、たとえば科学と偽科学を見分けようとする理論などと同じようなモチベーションで「何らかの基準を作ることができる」とか「どのような基準がより優れているか公共的に議論可能である」といったことがごく自然な哲学的議論の流れであると考えている論者は決して少なくはない。

 しかし、この前提はよく考えてみなければならない。前回、人生の意味について、近年はその問い方を工夫する(多くの場合、問題を細分化する)ことで、議論の対象がわかりやすくなったことをポジティブに捉えてみた。しかし、その副作用にもしっかり目を向ける必要があるだろう。

人生の意味についての問いは普通の問いではないのかもしれない

 私がここで言う「副作用」とは、理論のシンプルさや整然さと引き換えに「そのように問う人は誰なのか」「どんな立場からそれを言っているのか」という理論のなかに入れ込みにくい要素をカットしてしまう現象を指している。

 実のところを言えば、私は「典型例から考えておおざっぱな判定基準を作り、境界事例についてより細かく論じればいいだろう」と自然には思ってしまうタイプに属している。人生の意味に限らず、善とか正義とか福利とかについても、そうである。もしかしたら、善とか正義とか福利であればそれでいいのかもしれない(そもそもそういうことが望まれてもいるだろう)。しかし、「人生の意味」という問いは、それらと見かけ上よく似ていたとしても、それとはまったく異なる領域に属しているかもしれない。

 『人生の意味の哲学入門』の後半、第八章以降では、人生の意味をめぐる問いが、真理条件的にアプローチすることができ、そうすることが期待されている「普通の問い」ではない可能性が触れられている。人称や発話の場面に注目するもの(第八章)、この世界が存在していることへの驚嘆(第九章)、自分の人生の問題を他人と共有することの不可能性(第十章)、誕生の肯定と運命愛(第十一章)などである。これらは近年の研究動向に詳しい人にとっても、あるいはより広げて、いわゆる現代のプロフェッショナルな哲学のやり方一般を考え直してみたい人にとっても示唆があるだろう。

哲学に何を期待できるか

 このように紹介してみると、前回の記事で扱ったような(そして『人生の意味の哲学入門』前半部で扱われる)「客観的要件は意味ある人生に必要か」「人生の意味における自己実現の価値」といった「王道」のテーマは実は些末な問題であり、それらから外れたテーマ(『人生の意味の哲学入門』後半部で扱われるもの)こそが本当に価値ある、読者にとって有意義なことがらを扱っているように思われるかもしれない。ある意味ではそれは事実なのだが、一方でそうではないかもしれない(私は前半部の著者なので、そう言われると立つ瀬がない)。

 他の哲学的問題と同様に、人生の意味についても私たちは多くの予断を抱いている。そして、こう言っては何だが、この分野は格言的なものと結びつきやすい。たとえば「人生に意味などはなく、それは自分で作っていくものである」といったことを聞けば、「へへえ」と感心する人も出てくるだろう。それ自体はなんら罪あることではないが、人々は最初にその言葉を聞いたときの納得感を忘れてしまうかもしれない。

 私の考えでは、哲学が人生の役に立つのは、言葉が暴走してしまっているときや単なる決まり文句(クリシェ)となって不活性化してしまっているときに、手綱を握りなおしたり、息を吹き返したりすることが必要になるときである。「人生の意味は自分で作るものである」ということを「それは構成主義というのだ」と覚えることにさしたる意味はないが、どうしてそれがもっともらしく見えるかを自力で説明できるようになることは意味がある。  

 人生の意味を探求するのは哲学ばかりではないし、人生の意味は哲学的に探求されなければいけないわけでもない。しかし、決まり文句が多くなりがちで、そしてそれに振り回されることに危険があるからこそ、問題の切り分けを行なったり、さまざまな説のメリットやデメリットを考えるという、地味だが王道の哲学的探求にも一定の価値があるのである。

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