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問題にされてこなかった生きる意味の問い――『人生の意味の哲学入門』上

記事:春秋社

懇親会での忘れがたい思い出から話は始まる。
懇親会での忘れがたい思い出から話は始まる。

哲学者は「人生の意味」が苦手かもしれない

 もう十数年も前のことになるけども、ある哲学の学会の懇親会で同席した年長の研究者の人から自分の専門について尋ねられたことがある。そこで私は、さしあたり最近関心があることとして「人生の意味に関心があります」と答えた。どうやらその人は私の返事が冗談だと思ったのか、少し笑って「それは難しい問題ですね。ところで本当のご専門は何なんですか」と返してきた……。

 これは私にとって忘れがたい思い出だ。自分の研究が馬鹿にされたという感じはない。どちらかと言えば、その思い出には少しユーモラスな感じが伴っている。

 サイモン・クリッチリーの『ヨーロッパ大陸の哲学』(佐藤透訳、岩波書店、2004)でも、職業的哲学者にありがちな困惑として、次のような場面が描かれている。

 専門職業的な哲学者がパーティで見知らぬ人と会って、「それで、あなたは何をしているのですが」と尋ねられて彼女が〔「哲学者です」、と――引用者註〕〕答えると、この見知らぬ人は一瞬大胆になってか、あるいは何を言っていいか迷ったあげく「それでは、人生の意味って何なのでしょう」と尋ねる。ここで、いくぶん引きつった笑いの後に、哲学者の不安げな試みが続くが、それはできるだけ早く話題を変えようとするか、困惑の笑みを浮かべながら哲学の学問的研究は実際にはそうした事柄にかかわらないことを説明しようとするか、どちらかである。(pp.2-4)

 私の思い出とクリッチリーの想定する場面(これは彼自身の思い出かもしれない)は細部に至るまでよく似ているが、これは偶然ではないだろう。「人生の意味」という問題はアカデミックな哲学者にとっても、あるいはそうであればあるほど、取り組むべき主要な課題としてはみなされてこなかった、というわけである。西洋哲学の伝統は古代以来、「善き生」については多くのことを語ってきたが、「私はなぜ生まれてきたのか」といった実存的な含みを伴った「人生の意味」や「生きる意味」という言葉はせいぜい18世紀末に遡ることができるに過ぎない、という事情もある。

 もちろん、これまでにトマス・ネーゲルやロバート・ノージックといった著名な現代の哲学者によって人生の意味が論じられてきたことがまったく知られていなかったわけではないだろう。しかし、それらは散発的なものとして見なされ、統一的な視点から眺められることは稀であった。

問題の束としての人生の意味

 しかし、このような状況はここ十数年で確実に変化してきている。もっとも大きな変化は「人生の意味」を複数の問題の束ないし群れとして考えることが明確に意識されるようになったということである。人生の意味についての哲学の最大の困難は「どうすればそれに答えたことになるのか」が曖昧であったことに由来していた。問いと答えの関係が曖昧であったり、安定していないとき(「ある意味ではイエスだが、ある意味ではノー」という答え方が頻発する場合など)に、問題の立て方自体を工夫することで活路が見出されるかもしれない。

 人生の意味の問題はさしあたり複数の仕方で立てることが可能である。ある人は幸福との違いが気になるかもしれない(不幸だが意味ある生はありうるか?)し、別の人は「私らしさ」との関係(自己の本性が実現されることはいかにして可能か)を問題にするかもしれない、またある人は人生の意味の比較可能性(AさんよりBさんの方が意味ある人生を送った、と言えるか)を問題の根本と考えるかもしれない。もちろんこれらの問題は関連してはいるだろうが、答え方や必要とされる哲学的な道具立ては異なってきそうである。

 多様に立てられる問題を分類し、これまでの哲学の蓄積が通用する部分とそうでない部分を見分けたり、問題同士の関係を見極めたりする(地味な)作業を行なうことで、どうにかして問題群の輪郭だけでも抽出しようとするのが近年の人生の意味の哲学の特徴である。

 『人生の意味の哲学入門』も基本的にはこうした近年の人生の意味の研究動向と方法論を踏襲している。まず、「人生の意味」という問いが複数の価値やそれを表現する語と関係することが示され、どのようにそれが議論されてきたかの大枠が示される(第一章~第二章)。続いて、重要さ(第三章)、欲求や意欲、客観性(第四章)、幸福(第五章)、負の意味(第六章)、自己実現の理念(第七章)といった関連する問題や概念からの人生の意味にアプローチする方法が紹介される。著者のひとりとして、この順番は近年のアカデミックな人生の意味の哲学入門として王道を行くものであると自負している。

 しかし、第八章以降、この王道の路線に「待った」がかかる。これまでの議論を全部ひっくり返す、とまでは言わないにせよ、何か置き去りにされたものがあるのではないかという疑念が喚起されるのである。

 後半では、本書後半の提起する論点が、これまで紹介してきた近年の人生の意味の哲学の動向にとってどのようなインパクトがあるかを紹介しよう。

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