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日本、近代、文学、起源 すべてをカッコに入れて:私の謎 柄谷行人回想録⑬

記事:じんぶん堂企画室

1978年の柄谷行人さん
1978年の柄谷行人さん

――様々な言語に翻訳されている『日本近代文学の起源』についてお聞きします。自分の書いた本は読み返さないという柄谷さんですが、これはちょっと例外のようですね。

柄谷 外国語版が出る度に序文を求められたから、僕としては珍しく何度も読み直したんだけど、今はもうだいぶ忘れているよ(笑)。

――まず、どういう本か、というところからですが、日本の明治文学についての論考が収められた本です。「風景の発見」、「内面の発見」、「告白という制度」と、“風景”“内面”“告白”など当たり前のものになっていることが、実は近代化のなかで生まれた装置だということを、夏目漱石や森鷗外、国木田独歩に田山花袋などの明治文学を引きながら、次々に指摘していきます。例えば、人間の“内面”を描くために言文一致が確立されたのではなく、言文一致が確立される過程で“内面”が作られていったという転倒がある。初版の「あとがき」で、柄谷さんは、「タイトルにおいて、実は、日本・近代・文学といった語、さらにとりわけ起源という語にカッコが附されなければならない」と書かれています。

柄谷 いいこと言ってるね(笑)。ここでいうカッコに入れるということは、“近代”や“文学”を否定しようということではありません。通念でないところからみなければいけない、ということです。
当然、近代以前にも日本文学がある。だから、ここで問題にしたのは、日本近代文学というのは、どういうふうに始まったかっていうところなんだ。

――冒頭に置かれたのは「風景の発見」です。近代文学が前提しているような主観と客観という考え方を問題にしています。

《「近代文学の起源に関して、一方では、内面性や自我という観点から、他方では、対象の写実という観点から論じられている。しかし、これらは別々のものではない。重要なのは、このような主観や客観が歴史的に生じたということ」「それは確立されるやいなやその起源が忘却されてしまうような装置である」。『定本 日本近代文学の起源」』》

柄谷さんは、絵画史の観点も踏まえながら、日本近代文学の始祖の一人とされる国木田独歩が客観=風景をどのように描いたか論じています。独歩の「忘れ得ぬ人々」では、主人公がふつうは見過ごしてしまうような人々に執着して、いかにも意味ありげな人のことは取り上げない。そして、見過ごしてしまうような人たち=風景を描くことが、「孤独で内面的な状態と緊密に結びついている」と指摘します。

国木田独歩=1900(明治33)年、東京・赤坂
国木田独歩=1900(明治33)年、東京・赤坂

柄谷 もちろん、風景として描かれているような山とか木、忘れてしまいそうな人たちは、もともとそこに存在していた。だけど、僕がここで言っている“風景”というのは、なんでもないような山野や人々をわざわざ“風景”として描くことです。
近代以前には、それ以降に生じたような意味での主観と客観の区別はありませんでした。たとえば、山水画で書かれたような山や木は、そこにあるものを写生していたんじゃなくて、宗教的な“概念”として描かれていた。自然に対する宗教的な解釈がまずあって、その表現として描いた、ということですね。
だから、“風景”には、ものの見方そのものが含まれている。見方が変わると、“風景”も変わるってことなんです。外側に物理的・客観的な風景があって、内側に主観的な風景があるということではなくて、風景においては、見る者と見られるものは切り離せない。 “風景”を論じることは、近代への転換を論じることだったんです。

――柄谷さんは、最初に夏目漱石が西洋の文学史を自明とするあり方に疑問を呈していることを取り上げます。漱石は、西洋中心主義を批判することにとどまらず、歴史が連続的、必然的に発展してきたという発想自体を疑問視している。他の可能性もあり得たはずなのに、なぜ歴史はこうなっているのか、ということを疑わないのかということですね。そのときに漱石が例に引いているのが、絵画史です。

柄谷 ヨーロッパでも、中世には、風景画と見えるものにも聖書的モチーフが描かれていた。概念から出発していたのは、山水画と同じです。そのようにして風景がつくられたわけです。ただの風景というのは、“風景”ではなかったんですよ。ただの風景を描くようになったのは、近代になってからです。
文学の世界でもこれと並行した転換があって、近代文学が生まれた。近代文学を成立させた条件を、僕は見ようとしたんです。しかし、僕より前の論者たちはそういう視座をもっていなくて、文学はヨーロッパではこういうふうに発展したというような、文学史的な見方しかしていなかった。文学という概念そのものを問おうとしたのは、漱石のような少数の人だけでした。

――柄谷さん自身として印象深いのは、「風景の発見」ですか?

柄谷 いや、そうとも言えない。「児童の発見」も大きいですよ。

《「児童の発見」では、大人の押しつけではない「真の子ども」の姿を追求しようとした近代の児童文学に対して、「児童」も近代が作り上げた概念に過ぎないと指摘した》

柄谷 これも風景と同じで、子ども自体はずっといたものですよね。だから逆に見えづらくなるのですが、現在のような子どもの理解や子どもの扱いが始まったのは、ルソーの『エミール』以降です。子ども扱い、というやつですね。ルソー以前には、子どもは大人と同じように扱われていて、小さな大人に過ぎなかった。また子どもは、通過儀礼を境に大人になるとされていたので、成熟する期間である青年期は想定されていなかった。
この論文には、柳田国男がかなり入ってるんですよ。柳田は、かつての日本では、大人が子どものために遊びを作ることはなかったし、昔話も子どものために作られたものではなかったと書いています。
柳田は、若い頃は島崎藤村や田山花袋と一緒にロマン派として新体詩を作っていたんですね。藤村たちは、詩を自らの内面を託すものと考えていた。でもそういう考えは、短歌の題詠に慣れた柳田にとっては違和感があるものだった。“文学”以前の文学では、ロマン派的な自己や自己表現なんてものはなくて、あちこちから引用したり、あれこれを模倣したり、集まって合作したりといったことが、自在になされていたから。

緊張のなかで準備した講義

――この本の成り立ちについてですが、1975年からの米国・イェール大学での講義がベースになっているんですよね。

柄谷 アメリカ行きはくじに当たって偶然決まったことだけれど、そのときにはまさか日本文学を教えることになるとは思っていなかった。当初は、英文科や哲学科に在籍することも考えていたくらいだから。
最初のうちは、ともかく授業の準備に苦労しました。前回のインタビューでは、(ポール・)ド・マンや(ジャック・)デリダとの出会いの話をしましたけど、イェールに何をしに行ったかっていうと、彼らと話しに行ったわけじゃないですからね(笑)。もちろん、大きな出来事ではあったけど、緊張して、一生懸命準備をしたのは、やっぱり授業ですよね。つまり、明治文学のことです。その時点では“日本近代文学の起源”なんて銘打ってやったことではなかったけど、この授業が『日本近代文学の起源』の起点になったのは確かです。

――柄谷さんを客員教授として推薦してくれたイェール大のエドウィン・マクレラン教授からは、明治文学について教えてほしいと要望があったんですか。

柄谷 そんなのない。なんでもいい、と。僕の考えややりたいことを尊重してくれてたんだろうね。明治文学をやろうと決めて勉強を始めたとき、とくに参照したのは、中村光夫の『明治文学史』です。その結果、彼が言ってないことを考えることになった。普通に言えることは、中村さんがもう言っているわけだから。

文芸評論家の中村光夫=1985年
文芸評論家の中村光夫=1985年

――文芸評論家の中村光夫(1911~88)は、戦前から活躍した第一人者です。中村へのアンチテーゼという面があったのでしょうか。

柄谷 いや、そうではないですね。中村さんっていうのは「です、ます」で書いてますからね。自己主張という感じじゃないんだよ。「こういうものなんだな」と納得がいく。その上で、普通とは違う観点から考えてみよう、ということです。
その成果が、論文でいうと、「風景の発見」や「内面の発見」、「告白という制度」ですね。普通の大学の授業でこんなことはやらないと思いますよ。

――客員研究員としていくつもりが、授業をやることになって、数カ月で慌てて準備したとおっしゃっていましたね。

柄谷 当時のことはもう覚えてないんですけど、こんなことを3カ月程度で考えられるわけがない。一体どうしたんだろうなと、今となっては思うけどね(笑)。
今考えると、「風景の発見」は、僕が大学に入って東京に出てきたときに最初に住んだ、三鷹のイメージから来たんだろうなっていう気がする。“風景”をとらえた国木田独歩は、やっぱり重要人物ですよ。

国木田独歩の「武蔵野」の舞台、武蔵野付近のむかしの名残をとどめる林を散歩する国木田治子未亡人=1951年
国木田独歩の「武蔵野」の舞台、武蔵野付近のむかしの名残をとどめる林を散歩する国木田治子未亡人=1951年

アメリカで考えた日本文学

――講義は、どんな規模でどんな人が参加していたんでしょう。

柄谷 学生は12、3人で、ゼミ形式だったな。講義を聴きに来ていたのは、東アジア学部日本学科の日本文学専攻の学生たちだったと思います。ジョン・W. トリート(日本文学研究者、イェール大学教授。著書に『グラウンド・ゼロを書く 日本文学と原爆』など)もいたし、水村さんもいた。女性は彼女1人だったと思う。

――後に作家になる水村美苗さんですね。夫である経済学者の岩井克人さんは当時イェール大の助教授で、柄谷さんとは後に共著もあります。この頃、知り合ったんですか?

柄谷 どうだったかな。ともかく、水村さんを通じて知り合ったんだと思います。岩井君は、僕より六つくらい下だから、知り合った頃はずいぶん若かったですよ。

――当たり前のことなのでしょうが、授業は英語ですよね。

柄谷 日本学科とはいえ、日本語に不自由がないのは水村さんくらいだし、アメリカの大学なので当然英語です。自分でもどうしてできたのかは覚えてないけど、何とかなった、ということだったのかな(笑)。当時は、授業の構想をまとめるのだって大変でしたよ。パソコン以前だからね。その頃は、タイプライターもちゃんと打てなかったから、構想を手書きでまとめて、それを見ながら講義したんだろうと思う。恐ろしい。
アメリカに行ったとき、僕は34歳だった。これは、漱石がロンドンに滞在していた年齢と重なる。彼が「文学論」を構想していた頃なんですよね。それもあって、漱石から始めたというところもあった。
『日本近代文学の起源』になった一連の論文は、アメリカでやった講義がもとになっていたということは大きいと思います。日本人に教えるのとは、前提しているものが違いますから。“日本”も“近代”も“文学”も、当たり前のものとしては扱えないでしょう。僕自身がまず、日本を外から見ないといけない。逆に言えば、アメリカでやるという条件によって、それが可能になったとも言える。それから、アメリカ側の日本文学に対するイメージへの反発もあったしね。

エキゾチックなイメージにあらがう

――日本文学といえば、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫という時代でしょうか。

柄谷 要するに、エキゾチックで美的なものとして見られていた。政治性や倫理性とは無縁のものとして。エドワード・サイデンステッカー(日本文学研究者、コロンビア大教授)やドナルド・キーン(同)が作り上げた日本文学のイメージがあるんですよ。それが当面の僕の仮想敵だった。だから、アメリカの学生たちに、そういう発想から出て考えろ、っていう気持ちもあったんですよ。日本という異質なものを学ぶんじゃなくて、自分という異質なものを学べということだ。

――エドワード・サイードの『オリエンタリズム』が刊行されたのが、1978年です。柄谷さんがアメリカで講義をしていたのは、それ以前ということになりますね。

柄谷 なるほど、そうだね。『オリエンタリズム』と『日本近代文学の起源』のアプローチは、共通している。そこから考えると、僕がイェールの講義でやったことは、アメリカでも新しかった。学生の反応も徐々に変わっていった記憶がありますね。
『オリエンタリズム』といえば、ド・マンが「書き方がくどい」と言ってて、意外に思ったことがあった。けなしたわけじゃなくて、単にそういう言い方をする人なんだね(笑)。
『オリエンタリズム』が出たことで、80年代に入るとアメリカでは、日本科も含めて、欧米の外を扱う学問を取り巻く状況はずいぶん変わりました。僕がサイードと知り合ったのは、85年くらいだったと思うけど、後に彼が勤めるコロンビア大学に客員教授で行ったとき(90年)には歓迎してくれて、何かと力になってくれた。

――「児童の発見」もイェールでの講義がもとになっているんですか?

柄谷 いや、違うと思います。後で書いたんじゃないかな。ただ、実はイェールで頼まれて、ゼミとは別に、柳田国男について特別に個人教授をしていたんですよ。それを頼んできた学生は、マーカス君というんだけどね。お父さんが有名な数学者で、東大に教授として滞在していたこともあると言ってた。それで日本に関心を持ったのかもしれないね。
マーカス君のファーストネームはアンドリューなんだけど、「僕の日本名は、安藤竜です」なんて言っていた。あとからきいたところでは、「田舎源氏」(「偐紫田舎源氏」。江戸後期の合巻で、柳亭種彦作。紫式部「源氏物語」の舞台を平安から室町にして翻案した)についてものすごく長い博士論文を書いて、その長さと博覧強記ぶりに審査する教授たちが仰天したとか(笑)。

――アメリカの若者で、源氏ですらなく田舎源氏というのは、かなりマニアックですね。

柄谷 「源氏物語」はすでによく知った上でのことだろうからね。こういう人を天才っていうのかもしれないね。彼はワシントン大学で、日本文学の准教授になったんだけど、若くして亡くなってしまった。いまも彼を記念したアジア文学のセミナーが開かれていると聞きました。「児童の発見」は、彼に教えたこととは違うけれど、柳田についてはアメリカ滞在中にもかなり考えていたことは確かですね。

英語、中国語、韓国語、ドイツ語…予想外の広がり

各国語で刊行された『日本近代文学の起源』。後列左から、ドイツ語、韓国語、中国語(定本版と原本版)、前列は英語版とトルコ語版。
各国語で刊行された『日本近代文学の起源』。後列左から、ドイツ語、韓国語、中国語(定本版と原本版)、前列は英語版とトルコ語版。

――『日本近代文学の起源』は、90年代に入ると、次々に外国語に訳されていきますね。英語、韓国語、中国語、ドイツ語、トルコ語、ブルガリア語。アメリカに行って以降、外国に向けて書くことを意識していたとのことですが、こうした広がりは予想していましたか?

柄谷 いや、まったくの予想外ですね。外国を意識して書いたのは、むしろマルクス論なんかの理論的な仕事のほうです。この本は、日本文学についての話ですからね。日本以外で国木田独歩なんて、まず誰も読んでないよ。だから、最初に英訳の話が来たときは半信半疑でした。そんなもの誰が読むんだ、読んだって知らない作家のことばかり書いてあって面白くないだろう、と。コーネル大学教授のブレット・ド・バリーさんから翻訳の申し込みがあって、その後何年か音沙汰がなかったから、話が流れたのかと思っていたら、突然連絡がきて、間もなく出版されます、といわれた。僕としては、英訳が出るのなら内容に手を入れたい、と思っていたんだけれど、その時点ではもう遅かった。だから日本語版だけでも、と思って何年も後になりましたが、大幅に書き直したんです。

――いまは、講談社文芸文庫で「原本」、岩波現代文庫で「定本」と二つのバージョンが読めます。

柄谷 書き直したときに元の本は絶版にするつもりだったんだけど、文庫になってからも版を重ねて(37刷)よく読まれていたから、それはそのまま残したいと言われ、「原本」として新装してもらいました。
翻訳されたことによって分かったことはいろいろあるけれど、たとえば、近代化に際しては、どの国でも似たような過程をたどる、ということです。まず、近代国家をつくるためには、「ネーション」を形成する、つまり人びとを一つの国民としてまとめる必要がありますが、そのためには言葉のレベルでの統一性を図らなければいけない。それで、言文一致が必要になり、文学が不可欠になるんです。これはどこでも同じです。それだけではなくて、“風景”が発見されることも同じだ、とこの本を読んだ人たちから言われました。東アジアだけではなくて、トルコやブルガリア、イランやボリビアの人たちから「私の国でも同じことがありました」「風景が発見されました」と言われたのには驚いたよ。

(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、文学から離れていく頃のことなど。月1回更新予定)

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