「泣き笑い」の日本近代史! 『「喜劇」の誕生──評伝・曾我廼家五郎』
記事:白水社
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俺は、人の邪魔になつて、邪魔になつて、仕様の無い人間になつてやる。
若し、其れになることが出来ないなら、反対に、無くてはならぬ人間になつてやる。───曾我廼家五郎「泣き笑ひ自叙伝」
国立劇場は元祖日本の喜劇王・曾我廼家五郎(一八七七〜一九四八)の肖像画を所蔵している(口絵参照)。油絵具で描かれ、黒を背景とした本格的な西洋画に描かれているのは、猪首の太りじし、いかにも精力旺盛といった脂ぎった日本人の中年男性。中小企業の社長にいそうなタイプだ。芸術家にも、コメディアンにも見えないこの男が、神妙な顔をして額縁に収まっているのを見ると微苦笑を禁じ得ない。だが「高尚」な西洋文化と「野卑」「低俗」な日本の庶民というこのミスマッチこそ、本書の主人公である五郎の七一年の生涯をよく表わしている。
曾我廼家五郎は芸名で、本名は和田久一という。一八七七年九月、現在の岸和田市稲葉町に生まれ、大阪の歌舞伎役者・中村珊五郎のもとに弟子入り、珊之助という名で下廻り役者を勤めていたが、一九〇四年二月、同僚の中村時代(一八六九〜一九二五)とともに、曽我廼家十郎一座・曽我廼家五郎一座を名乗り「改良大喜劇」の看板を掲げて大阪・浪花座で打って出たことをきっかけに人気が出た。曾我廼家とは、歌舞伎や講談でいう「曾我物」──もっとも有名なのが、歌舞伎の『寿曾我対面』(一六七六年二月・中村座)だ──の主人公、曾我十郎祐成・五郎時致の兄弟が、父の敵討を遂げるまで貧窮に耐えて暮らした小屋のことで、古川柳では自分の家のことを陋屋だと謙遜する意味で曾我廼家といった。曾我十郎・五郎といえば伝説のヒーローだけれども、自分たちは粗末なあばら屋に住む贋者だ、という洒落の見立てで二人は曾我廼家十郎・五郎を名乗った。
曾我廼家十郎・五郎という名前は、当時の人の耳には馬鹿げて軽薄なものに聞こえたはずだ。だが二人のおふざけはそれにとどまらない。大歌舞伎で曾我十郎・五郎は、困窮しているという設定にもかかわらず、豪華な衣裳をつけて登場する。原作(の一つ)である『曾我物語』にもとづき、十郎は千鳥の、五郎は蝶の模様を散らした装束だ。そこで、十郎と五郎は弟子にそれぞれ、鳥と蝶の一字が入っている名前をつけた。曾我廼家千鳥・曾我廼家蝶六・曾我廼家蝶七・曾我廼家林蝶。あるいは大磯・笑将・朝比奈のように、『曾我物語』の登場人物に因んだものもあった。また、五郎は自分の芸紋を浮線扇にしている。これは浮線蝶という紋の柄の蝶を扇に代えたものだ。
そんな浮ついた気分が横溢していたこの「曾我廼家(兄弟)劇」は、当時新進の興行会社として破竹の勢いを見せていた松竹兄弟合名社(のちの松竹株式会社)と早々に手を結んだこともあって、間もなく大阪・京都・神戸ばかりか東京でも公演を打つようになる。その人気ぶりに、各地で同様の傾向の喜劇団が生まれて、一九一〇年代は「喜劇団ブーム」と呼ばれる活況を示すことになる。西洋演劇の概念であるcomedyは当初、「道化狂言」「嬉劇」などさまざまに訳されたが、この喜劇団ブームによって「喜劇」という訳語が社会に広まるようになった。その後、路線の違いから十郎と五郎は袂を分ち、それぞれ曾我廼家十郎劇・曾我廼家五郎劇を名乗って別々に活動するようになるが、十郎は腎臓病で一九二五年一二月にこの世を去る。
以降、一九二〇年代から昭和戦前期にかけて、五郎が座長・座付作家・演出家・主演を兼ねる五郎劇は、新橋演舞場(東京)、中座(大阪)、南座(京都)、御園座(名古屋)といった一流の大劇場でもっぱら公演を行なう、ブルジョア喜劇の代名詞となった。二六年五月九日の新橋演舞場公演には、高松宮宣仁(一九〇五〜一九八七)、伏見宮博恭王妃経子(一八八二〜一九三九)、久邇宮邦彦王(一八七三〜一九二九)ら六名の皇族が来臨した。高松宮宣仁は大正天皇の三男、伏見宮妃経子は徳川慶喜の九女、久邇宮邦彦王は昭和天皇妃・香淳皇后の父だ。また三二年五月に来日した喜劇王チャーリー・チャップリンが二〇日に新橋演舞場で公演中の五郎のもとを訪れたことを報ずる新聞記事は「東西喜劇王が固い握手」等の見出しがつけられ、曾我廼家五郎こそ日本の喜劇王であるという認識が国民の間で広まった。三〇年代半ばになると古川緑波(一九〇三〜一九六一)や榎本健一(一九〇四〜一九七〇)がサラリーマンなど新興中間層の間で舞台だけでなく映画でも人気となり、喜劇王を冠せられるようになるが、入場料も大歌舞伎のそれより多少安いだけの五郎劇はエノケンやロッパの喜劇とは文字通り「格」が違っていた。
一九三一年九月、満州事変の始まりとともに、日本は十五年戦争とよばれた、中国との戦争の期間に突入する。この時期の五郎は積極的に戦争協力を行なった。傷病兵や工員の慰問のため各地の陸海軍病院や軍需工場に赴いて公演を行なっただけでなく、軍需品購入のため献金を醵出したり、「弾丸切手」(戦費調達のため発売した、抽選くじ付きの郵便貯金債券)の売りさばきに協力したりもした。日本の敗色が濃厚になった四四年三月、決戦非常措置要項によって大都市の主要劇場が閉鎖される。四五年三月には中座・角座・弁天座・浪花座等が大阪大空襲で焼失、五月には歌舞伎座と新橋演舞場が焼失するなど、戦争はますます激しくなっていくが、そういうときだからこそ、笑わせてくれる五郎劇は大変な人気を呼んでいた。戦争が終わった翌月の四五年九月には八千代座(神戸)で、ついで南座で、公演を行なうなど、すさんだ人々の心を和ませた。
五郎が七十歳を迎える少し前の一九四七年夏、喉頭がんの罹患が判明する。喉の異状を数年間放置していた五郎は、あわてて手術を受けるが、予後は芳しくなく、声が出せなくなる。五郎が最後に勤めた舞台は、四八年九月・中座公演での「葉桜」(昼の部)と「丑満頃」(夜の部)だ。「葉桜」は声を出せない五郎が姿だけ見せ、「陰の声」を弟子の明蝶が語るという趣向だった。夜の部「丑満頃」は無言劇だったが、序幕「色眼鏡」が終わると「御礼口上」の場となって五郎が登場し、こちらは泉虎が「陰の声」を務めた。一日初日から五日まで演じたが六日は休演、七日八日は再び舞台を務めたあと、九日からは入院。一一月一日に没する。
五郎の肖像画は、一九七〇年一一月、五郎の三十三回忌を迎えるのを期に、後妻の秀子が懇意にしていた演劇評論家・山口廣一(一九〇二〜一九七九)の仲介により国立劇場に寄贈した遺品の一つだ。一九二五年一一月、その年の四月に開場したばかりの新橋演舞場に曾我廼家五郎劇が出演し、以来三九年五月まで毎年、公演を行なった(その後も四四年六月まで出演したが、敗色濃厚となり、新橋演舞場は休業などを挟み四五年五月二五日の空襲で外周りを残して焼失した)。十五年連続出演を記念して五郎は『十五年の足跡』(一九三九年、双雅房)という自伝を刊行するとともに、新橋演舞場の取締役でもあった洋画家・平岡権八郎(一八八三〜一九四三)にこの肖像画の作成を依頼したようだ。
この肖像画がいかに喜劇俳優に似つかわしくないかについてはすでに触れたとおりだ。そもそもどうして写真ではなく、油絵の肖像画を残したいと五郎は考えたのだろう。名だたる日本の喜劇俳優で同じことをした人はいない──エノケンやロッパ、あるいは森繁久彌(一九一三〜二〇〇九)や渥美清(一九二八〜一九九六)を描いた油絵があるとは寡聞にして知らない。こうした肖像画がお似合いなのは政治家や実業家といった人々だ。おそらく、功成り名を遂げた五郎は、自分がたんなる喜劇俳優ではなく、そうした人々に匹敵するような大立者なのだと周囲の人々に思わせたかったのだろう。
実際、五郎は演劇人として今挙げた人々よりはるかに成功した。一九三〇年に五郎劇に加入し、すぐに五郎劇を代表する女方となった曾我廼家桃蝶(一九〇〇〜?)が、『十五年の足跡』刊行前後のことを回想して次のように書いている。
新橋演舞場のお正月と申せば、十何年来の吉例で、笑門来福を表看板にした、曾我廼家五郎劇の、にぎやかな、そして、はなやかな、あの幕あきのお囃子で始まりました。紅提灯に色どられたとそ気分の、満員の客席に、哄笑の渦が巻き、泣き笑いの波が寄せ、お正月は曾我廼家の芝居を見なければ、朝起きて顔を洗わないこと同然、とまで言われたものでした。 ───曽我廼家桃蝶『芸に生き、愛に生き』(六芸書房、一九六六)、一七三頁。
自らの教養を高める文化活動としての「観劇」ではなく、日常生活の憂さを忘れる娯楽としての「芝居見物」を好んだ人の多かった時代、五郎劇は歌舞伎とならんで格別の楽しみを与えてくれる存在だった。だが名実ともに「喜劇王」だった五郎の芝居を今覚えている人はほとんどいない。
【『「喜劇」の誕生──評伝・曾我廼家五郎』所収「序章 肖像画の五郎──演劇近代化の諸問題」より】