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唯識思想とアサンガ(無著)・ヴァスバンドゥ(世親)兄弟

記事:春秋社

猫は実在するか
猫は実在するか

唯識思想

 仏教の哲学的な思想に唯識思想というものがある。この思想は、四世紀頃のインドで、大乗仏教の思想家たちが空に対する思索を深める中でうまれた。彼らは「すべての存在は唯識である」と説いている。「唯識」とは、文字通りには「ただ識のみ」という意味になるが、この場合の「識」は、いわゆる対象を認識するはたらきのことではない。インドの古典語であるサンスクリット語では、対象認識をvijñānaという。眼や耳など感覚器官による認識(いわゆる五感)と、言語の使用や記憶などの関わる意識が、これにあたる。それに対して、「唯識」という場合の「識」の原語はvijñaptiといい、「認識された結果」を意味している。「すべての存在は唯識である」とは、「あらゆる存在は認識の結果として見えているものに過ぎない」ということを意味している。

唯識思想と瑜伽行派

 この唯識思想を唱導する学派を唯識派といい、また瑜伽行派(ゆがぎょうは)ともいう。「瑜伽行」とは「ヨーガーチャーラ」というサンスクリット語を翻訳したもので、「ヨーガの実践をする人」を意味する。この術語は「ヨーガ」と「アーチャーラ」という二つの単語にわけることができる。このうち「ヨーガ」はいわゆる瞑想のことで、これを「瑜伽(ゆが)」と音写し、「アーチャーラ」の部分を実践という意味で「行」と訳している。本来は「ヨーガの実践」を意味するはずだが、文献では、しばしば「ヨーガの実践者」という意味で用いられている。その場合、一般的な意味ではなく、唯識思想を説く人々を指していることが多い。つまり、ヨーガーチャーラが唯識思想を説く学派を指す呼称となっている。そのため、唯識派のことを瑜伽行派とも呼んでいる。

 唯識派にしろ、瑜伽行派にしろ、日本では聞きなれない学派名だが、奈良の興福寺や薬師寺に伝わる法相宗は、この唯識派の流れを汲んでいる。三蔵法師として知られる玄奘は、七世紀にインドに赴き、そこで唯識の思想を学んで、多くの典籍を唐に持ち帰った。彼が訳出した典籍の中に『成唯識論』というものがあり、その内容を研究した僧たちが法相宗を形成していった。それが南都六宗の一つとして、日本にも伝えられている。

無著と世親

 話をインドに戻す。唯識思想の実質的な創始者は、アサンガ(無著(むぢゃく))とヴァスバンドゥ(世親(せしん))の兄弟とされている。二人とも五世紀頃の人物と目されている。しかし、このふたりがはじめて唯識思想を説いたというわけでもない。

 伝説によれば、兄のアサンガはマイトレーヤ(弥勒(みろく))から唯識の思想を学んだとされている。マイトレーヤはトゥシタ天という天上界に住む菩薩で、五十六億七千万年後に悟りを開くと予言(授記)されている。アサンガは神通力によってトゥシタ天にのぼり、そこでマイトレーヤから唯識思想を授けられたという。さらにはアサンガが地上に戻った後も、マイトレーヤは夜毎にアサンガのもとに降臨し、唯識を説く文献を伝授したとされている。

 六世紀頃のインドの学僧である真諦(パラマールタ)は、その著『婆藪槃豆法師伝』の中で、マイトレーヤは『十七地経』(『瑜伽師地論』の前半部分「本地分」に相当)をアサンガに伝授したと述べている。また、玄奘は『大唐西域記』の中で、『瑜伽師地論』のほか、『大乗荘厳経論』や『中辺分別論』という文献も授けられたと記している。

最初期の唯識文献

 『婆藪槃豆法師伝』はアサンガとヴァスバンドゥの最も古い伝記とされている。そこには上で述べたように、アサンガが天上界の菩薩であるマイトレーヤから唯識思想を教授されたことが記されている。これが何らかの歴史的な事実を反映していると考えるか否かは、人によって見解が分かれるところだが、仮にアサンガがマイトレーヤから教えを受けたと自ら語っていたとしても、それは彼の瞑想中に起こった神秘体験なのではないだろうか。

 ところで、この伝説によれば、アサンガは『瑜伽師地論』の前半部分に相当する「本地分」をマイトレーヤから伝授されていることになる。これはアサンガに先んじて、『瑜伽師地論』「本地分」がすでに流布していたことを意味しているのであろう。また、アサンガは、その著『摂大乗論』の中で、『大乗荘厳経論』や『中辺分別論』なども引用している。これらの文献は、マイトレーヤに帰せられる論書として知られている。こうしたことから、『瑜伽師地論』「本地分」や『大乗荘厳経論』『中辺分別論』は、アサンガが唯識思想の体系を構築するよりも前から、世に出ていたと考えるのが自然だろう。

 アサンガは、彼に先行する唯識文献を渉猟し、それをもとにさらに彼自身の思索を深めていったのであろう。またそのアサンガに感化されて、弟のヴァスバンドゥも大乗仏教に転向し、自著をまとめ、唯識思想を精緻なものにしていった。そのような意味で、アサンガやヴァスバンドゥは唯識思想の「実質的な創始者」なのである。

(後編はこちら)

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