1. HOME
  2. コラム
  3. 文芸時評
  4. 「翻訳」を考える ときに透ける、支配の構図 鴻巣友季子〈朝日新聞文芸時評22年6月〉

「翻訳」を考える ときに透ける、支配の構図 鴻巣友季子〈朝日新聞文芸時評22年6月〉

青木野枝 玉響1

 この10年、英米における翻訳への関心の高まりを感じてきた。ブッカー国際賞など訳者も対象にした文学賞が整備され、多くの翻訳出版社が台頭した。日本でも翻訳に関する重要書が次々と刊行されている。ローレンス・ヴェヌティ『翻訳のスキャンダル』の待望の邦訳(秋草俊一郎/柳田麻里訳、フィルムアート社)もその一つだ。

 米国人の著者が1990年代に打ち出した「同化・異化翻訳」という概念は現在、世界文学論の必須用語である。そこには帝国主義的な支配関係の縮図が見てとれる。同化翻訳とは、元々その言語で書かれたように読みやすく訳すことで、異質なものを自文化の中に呑(の)みこんでしまう横暴さも併せ持つ。異化翻訳は原文の特性を生かすため読みづらくもなるが、他文化への尊重がある。

 彼のもう一つ有名な概念は「翻訳者の不可視化」だ。言語強者の英語圏では、読者は外国のものを敬遠するという思い込みや、翻訳はオリジナルより価値が低いとの考えから、翻訳であることを隠し「マージナルな」隅に追いやりたがる。

     ◇

 さて、ヴェヌティの実地編のような様相を呈したのが、今年のブッカー国際賞だった。受賞はインドのヒンディー語作家ギータンジャリ・シュリーと、訳者のデイジー・ロックウェル。受賞作「砂の墓」(未邦訳)では、社会の周縁で生きてきた80歳の女性が夫の死後、インドと対立関係にあるパキスタンへ旅立つ。宗教、国、ジェンダーなど様々な境界を越え、扉を抜けていく物語だ。

 ユーモラスな多弁と哲学的思索、多彩な視点人物の言葉や心の声に加え、ドアや杖やカラスの思いまでが、一切の区切りなく大河のごとく滔々(とうとう)と流れてゆく。

 本作の場合、旧植民地の言語を旧宗主国の英語に翻訳することになるため、訳出には一層の繊細さが求められる。ロックウェルが腐心したのは、ヒンディー語の特性や、インドの生活を映した物語のカオティックな動力を、英語に同化してしまわないことだった。その甲斐(かい)あって痛快な異化効果が生まれている。

 今回の賞でもう一つ表面化したのが、前述の「翻訳者隠し」なのだ。英語圏では訳者名を本の表紙に載せないことが多く、候補作の一つを訳したJ・クロフトが強く抗議していた。翻訳者が無名のままのほうが安価に使えるという思惑もあると、「ニューヨーク・タイムズ」紙は指摘。翻訳という地道な通信インフラがなければ立ち行かないのに、見えない隅に追いやろうとする状況に、昨今のケア労働の問題と似た構図を感じる。「砂の墓」の多声がグローバル市場で埋没しないことを願う。

     ◇

 同作と並んでとりあげたいのが、永井みみのデビュー作『ミシンと金魚』(集英社)である。自分は「半分、死んでる」と言う老女カケイが己の一生を独白形式で回想する。やはり引用符を用いず、語り手の言葉や内的独白と周囲の声が、認知症の脳内で一体となる。母親はカケイを産んだ後に亡くなり、「まま母」には殴られ、飼い犬の乳を吸っていたという。再婚の男と結婚させられ男児をもうけるが、夫は失踪、夫の連れ子に凌辱(りょうじょく)されていたなどの凄絶(せいぜつ)な過去が切れ切れに明らかになる。

 三人称文体で多声をとりこんだ「砂の墓」に対し、本作には独白の制約と美点がある。美点は、心裡(しんり)に溢(あふ)れる言葉の多くがおそらく語り手の中で初めて語られるものであり、外部には終(つい)ぞ届かないという一回性だ。「ミュージカル」という外来語の意味すら思い出せないカケイは、色の名前だけは豊かに使いこなす。ミッドナイト・ブルー、パッション・レッド……。これらは戦後、舶来下着の縫製職で覚えた色名かもしれず、こうした華やかな語を自らの日常で使う機会はなかったのではないか。片隅に生きた人の失われゆく発話と、豊かであり得た内面との落差に胸をつかれる。

 一昨年のブッカー賞受賞作、ダグラス・スチュアート『シャギー・ベイン』(黒原敏行訳、早川書房)は、サッチャー政権下の新自由主義政策で空洞化したグラスゴーの産業地帯を舞台に、貧困家庭の母と息子の10年余りを描く。母は浮気性の夫に捨てられてアルコール依存に陥り、女の子っぽい息子シャギーはいじめにあう。2人の苦しみの元には労働者階級の男たちの女性蔑視と同性愛嫌悪もある。切り捨てられる弱者や少数者の声が多様に響きあう、これも驚くべきデビュー作だ。=朝日新聞2022年6月29日掲載