小説が「読める」批評家は 文学の潮目に立ち会った文芸時評:私の謎 柄谷行人回想録⑭
記事:じんぶん堂企画室
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――柄谷さんは、1977年から78年にかけて、文芸時評を執筆し、東京・中日・北海道・西日本新聞に掲載されます(79年『反文学論』として刊行)。文芸評論家としてデビューした柄谷さんですが、唯一の文芸時評です。
柄谷 今回聞かれるということだったので、予習のつもりでちょっと読み直してみたけど、全部忘れちゃってたね(笑)。ただ、アメリカから帰ってきてすぐにやったということは覚えてる。準備もせず、いきなりやったんですよ。もともと本になるとも思っていないし、そのとき書いて終わりという感じでした。
――“文芸時評”は、新聞や雑誌で1カ月や3カ月ごとに、その期間に発表された文学作品を論じていく批評の形式です。日本独自のものだとも言われていて、日本の文芸批評の伝統と言っていいかもしれません。執筆者は作家の場合もありますが、小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、蓮實重彦と、日本文学を代表する文芸批評家はほぼ文芸時評を経験しています。新聞の文芸時評は、その月に文芸誌に発表された作品をすべて読むというのが基本です。柄谷さんは、その制度を奇妙なものだと言いつつ、一応乗っているという感じですね。
柄谷 そうですね。ただ、アメリカにいるときには、多少読むことはあっても、日本の現代文学から物理的に離れていたから、なにも用意はなかった。
――同時期でいうと、江藤淳も毎日新聞で文芸時評を担当しています。
柄谷 確かそうだった。僕が時評をやっているとき、江藤さんから、「なかなかいいね」と連絡をくれたことがあった。だけどこっちは読んでないから返事に困ったな。文芸誌に載った小説は読まなきゃ時評が書けないけど、他の人の時評を読む義務はないからね(笑)。
――『反文学論』は、いま読んでもおもしろいです。安岡章太郎がおならについて書いた小説から日本と欧米の文化論が展開されたりして。
柄谷 「放屁抄」という作品ですね。それは覚えています。
――村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で衝撃的なデビューを果たしたのが1976年。柄谷さんは、アメリカでこの作品を読んで、友人に「a basically base novel based upon the base(基地に基づく基本的に卑しい小説)」と嫌悪感を漏らしたと書いています。ただ、帰国後に文芸時評を始めてから「群像」に掲載された「海の向こうで戦争が始まる」を読んで、「私の“嫌悪”の質を考えなおしてみて、それはアメリカにいたときの私が触れたくなかったものをむき出しにしていたせいではないかと思った」と。
柄谷 無意識的な感性の鋭さがあったのは確かですね。僕はアメリカで、明治文学を教えましたが、それを東洋趣味ではない、普遍的な意味をもったものと捉えた。同様に、村上龍の小説も、日本と米国といった差異の根っこのところにある現実に触れていた。
――取り上げた作品を挙げるときりがないのですが、宮本輝「螢川」(芥川賞)、田中小実昌「ポロポロ」(所収の同名単行本で谷崎賞)など、後に賞を取って代表作となる傑作を掲載時にしっかり押さえている印象です。個人的には、「隅の老人」など小林信彦をほめているのも印象的でした。
柄谷 よく覚えてないな(笑)。ただ、僕が文芸批評家であったことは確かですね。それは、大学で文学を論じているのとは違います。批評家は、作品について誰かが評価する前に思い切って言わなきゃいけない。特に新人の作品に関しては、批評家は自分の目で見極める力が問われる。新人賞の選考でも同じです。少なくとも、僕はそういうつもりで選考委員をやっていました。僕は小説を“読める”ってことに関しては、なぜか自信があった。
――“読める”というのは、どういうことなんでしょうか。
柄谷 直感的に作品の善し悪しがわかるということです。昔、アメリカで有名な美術評論家でクレメント・グリーンバーグって人がいて、彼は絵が沢山掛かっているところを通り過ぎただけで、それぞれの絵の評価を決めてしまったらしい。ほとんど瞬時に評価するんですね。小説の批評にも、そういうところがありますね。“読める”批評家と、そうでない批評家がいる。
当時、 “読める”批評家として、平野謙と江藤淳がいたと思う。彼らと僕の小説の評価は、割と一致していたと思います。それを書くときにどう意味づけるかで、違いますけどね。平野さんが書いたものは別に面白くもないんだけど素朴で、小説を読む力があったことは確かです。江藤淳にも、それがあった。江藤さんが夏目漱石をきちんと評価してくれたことには感謝してますよ。坂口安吾についても、多くの人が軽視しているときからきちんとほめていた。ただし、彼がそういうことができたのは、初期だけですけどね。『成熟と喪失』のように一定の理論を作って、それにあわせて評価し始めると、図式に強引にあてはめるようになる。江藤さん自身も“成熟”にこだわったけど、それが決意として意味を持つのは若いときだけですよ。僕は成熟しようとは思わなかった。
それに対して、平野謙は、小説の評価を理論的に裏付けるようなことは言わないし、言えるような顔もしない。でも、党派性を超えて、作品の善し悪しの判断ができていた人だと思います。
《平野謙は、1907年生まれの文芸批評家。東大文学部卒。学生時代にプロレタリア文学運動に参加するが、その後離れる。46年埴谷雄高、荒正人、本多秋五、小田切秀雄らと「近代文学」を創刊。中野重治らと「政治と文学」論争を展開。主な著作に『昭和文学史』、『芸術と実生活』(芸術選奨受賞)、『文芸時評』(毎日出版文化賞)、『さまざまな青春』(野間文芸賞)など。78年没》
――平野謙については、柄谷さんが文芸時報執筆中に亡くなって、追悼のような形で取り上げています。まさに「党派性をめぐって」という文章です。
柄谷 彼に党派性があるとしても、それは(雑誌)「近代文学」の仲間、というような党派性ではないと思う。もちろん左翼だけど、共産党でも新左翼でもない。そういう “狭い”ものではないですよ。文壇でのふるまいも、自分の仲間がどうのという党派的なものではなかった。同じ「近代文学」の人でも、もっと党派的な人はたくさんいた。平野さんは違う。
たとえば、僕は、晩年の埴谷雄高から聞いたのですが、埴谷さんが僕のことを知ったのは、平野さんから電話があって、「面白い新人が出てきた」といわれたときだと。以前に吉本隆明や江藤淳が出現したときも、そうだったとか。平野さんがみんなに知らせたらしいです。平野さんと同世代の人たちは、彼のことを面白がっていましたね。彼の発想は予測がつかないから。それが、“戦後文学”というような党派性を超えていたということですよね。戦後派を仕切ろうとするような人じゃなかったのに、なんとなく平野さんのところには人が集まってしまう、そんな感じだったんじゃないかな。懐の深い人だった。
――柄谷さんは、時評の最初の回で、大江健三郎が同時代の文芸批評について「方法に立っていない、ジャーナリズム的な批評」と批判していることに反応しています。柄谷さんは、「私の批評はたぶん『印象批評』というようなものになってしまうだろう。それで一向かまいはしないと思う。しかし、それは『方法的』であるか否かということとは無関係である」と書いています。 “文学”と “理論”や “方法”との関係は、時評のなかでも繰り返し取り上げられていますね。
柄谷 批評というのは、評価の定まった古典を対象にして行われているような、理論的な文学研究とは違います。
批評の現場では、文学的な方法・理論が先にあって、それを当てはめてうまく説明ができるような作品を褒める、そこから外れるものをけなす、というのはおかしいよ。面白いか、面白くないか、いいか、悪いか。その判断が先にないといけない。僕に関しても、何か出来上がった理論がまずあって、それにもとづいて判断していると思われていたようです。だけど、僕はそんなものはなしでやってきた。たまたま面白い作品があったから、それについて論じたというだけ。僕は別に、文学を論じたいという気持ちはなかったんですよ。ただ、自分が面白いと思った事柄を考えることが、“文芸批評”なのではないか、と考えていた。
――78年に『マルクスその可能性の中心』、80年に『日本近代文学の起源』の単行本が出るなど、いまでも代表作といわれるような仕事をしています。並行して文芸時評をしていたことになりますね。
柄谷 言われてみれば、その頃、僕の仕事が一区切りついたんですね。今日、僕の仕事として認識されるようなものは、その頃の仕事からですよ。今挙げられた本の一冊は、僕が1975年にイェール大学で、日本近代文学の起源について講義するようになって以後に生まれた。また、もう一冊は、そのとき出会ったポール・ド・マンに、「マルクス論」を見せたために生まれた。その意味で、それらは、アメリカで生まれたといってよいのです。といっても、アメリカ人から学んだわけではありません。ただ、アメリカ人を前にして考えたことです。
『日本近代文学の起源』を書いていたときは、日本の同時代の文学のことなど考えていなかったですよ。ただ、近代日本に生じたことが普遍的な意味をもつと思ったのです。そして、僕は歴史的・理論的研究だけでなく、文芸時評のようなことも重要だと考えていました。並行して文芸時評を書いていたからこそ、見えてくる事柄があったでしょうね。実際、70年代末は、日本において“近代文学”が変わっていく時期でもあった。
――晩年の小林秀雄が大著『本居宣長』を刊行し、吉田健一や平野謙が亡くなります。一方で、76年に村上龍、79年に村上春樹がデビュー。中上健次は「枯木灘」を書いています。世代交代の印象が強い時期ですね。
柄谷 一つには、近代文学が前提としていたような意味とか内面性を否定するような文学が出てきたということですね。僕は別にこのような事態の到来を歓迎したわけではないけど。
――柄谷さんは、言葉遊び、引用、パロディー、物語といった「近代文学が閉め出した全領域が回復しはじめた」と指摘していますね。
柄谷 しかし、実際にそうしたことが起こってみると、失望することも多かった。たとえば、角川文庫の変様に象徴されるように、文庫のあり方が変わったでしょう。
――メディアミックスの手法などもあって、古典というよりも売れ筋の本、売りたい本が文庫化される流れになったということですね。
柄谷 それ以前は、文庫に入ることが古典と見なされる条件だったから、ある意味で、文庫が文学の永遠性を体現しているようなところがあったんですよ。「文学全集」もそうだった。実はどちらも昭和初期に広まった消費社会の産物なんだけどね。ただ、“近代文学”には、未来に自分の作品がどう読まれるかという意識があった。でも、そういう意識は壊れていった。要は、いま売れればいい、ということになったんだから。
――文芸時評を書いている最中に中上健次と行った対談では「(今は)文学とつき合うなら、文芸時評以外にはつき合えないっていう感じがする」と語っていた柄谷さんですが、終了後に書いた「時評家の感想」(「理論について――あとがきにかえて」)では、「本当のところはどうでもいい」「私にはほかにやりたいことがある」と言い放っています。
実際、例外的な作品論や作家論を除いて、同時代の文学状況を扱うことはまれになっていきますね。
柄谷 狭い意味での“文学”を放棄した、といえます。いまから見れば、小説が好きだったんだろうな。やっぱり、ある時期までは文学作品もよかった。本当に意味があった。しかし、そういう時代は終わった。村上春樹は境目の作家ですね。デビュー作の『風の歌を聴け』はよかったけどね。ともかく、どの作家がどうのというよりも、小説が持つ意味自体が変わってしまった。
――柄谷さんは2003年に「近代文学の終わり」と題した講演をして議論を呼びますね。
柄谷 この話は改めて話しましょう。しかし、一つ言っておけば、僕は別に、“文学”を追求してきたとはいえない。一応、文芸批評家という肩書きをもち、それ相応の仕事をやっていましたが、1980年以後は、事実上、引退したからです。たとえば、僕は80年に『日本近代文学の起源』を刊行しましたが、そのあとすぐに始めたのが「隠喩としての建築」の連載です。そして、83年には、「言語・数・貨幣」の連載。次に、「探究」の連載。
これらは、実は、文学批評とは程遠い、哲学的な仕事です。ただ、その頃僕はまだ文芸評論家だと思われていたので、それらも文芸評論の仕事だと見なされた。しかし外国では、欧米であれ、アジアであれ、僕を文芸批評家だと思う人はいません。15年くらい前からでしょうか、日本でもそうなってきたように思います。ただ、そうなると、逆にこういいたくなる。僕は文学批評家だ、と。
(この連載では、柄谷行人さんの半生をお聞きしていきます。取材では、妻の柄谷凜さんにもご協力頂きました。次回は、演劇や建築に広がった人間関係や興味関心など。月1回更新予定)