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最新の文化である「VTuber」現象を読み解く――『VTuberの哲学』下

記事:春秋社

山野弘樹著 『VTuberの哲学』(春秋社)
山野弘樹著 『VTuberの哲学』(春秋社)

「哲学とは何か」という問い

 「哲学」とはどのようなものだろうか?

 ある人は、哲学を「これまでの常識的な理解を刷新し、新たな世界の見方を敢然と掲げるもの」として理解するかもしれない。

 だが、哲学の仕事はそのようなものだけではない。哲学には、「これまでなんとなく理解されてきたが、はっきりと言葉にはされてこなかったものを徹底的に言語化・分析する」という仕事がある。

 こうした哲学の仕事は、確かに華々しいものではない。世界の在り様を独自の仕方で切り分けて明示するような哲学と比べて、「すでにある程度把握されている事柄をより明晰な仕方で理解し直す」ような哲学の営みは、一見して地味なものに映るだろう。

 だが、こうした哲学の仕事もまた、世界において決して失われてはいけないものだと私は思っている。この世界には、「なんとなく分かっているけど、なぜそうなのかハッキリと根拠をもって言えない」ということが溢れている。そして、そうした出来事を分かりやすく理解にもたらす営みは、決して無駄なことではないのだ。

 このとき、次のような質問が飛んでくるかもしれない。
「世の中には、哲学以外にも数多くの学問がある。そうした状況の中で、なぜあえて哲学にこだわるのか?」

 確かに、未解明の事柄を探究する学問として、物理学、生物学、歴史学、経済学、心理学など、さまざまな学問が先人たちによって発展させられ、継承されてきた。そうした中で、なぜ、あえて哲学なのか?

 それは、およそ哲学という学問だけが、「私たちの日常的な理解を構成する基本的な諸概念そのものを問い直す」という仕事を担うことができるからである。もちろん、哲学以外の学問でも、その学問にとって根本的な概念(例えば「生物」や「歴史」)を問い直すということはあるだろう。だが、哲学はそれよりもさらに基本的な概念を根本的に問い直す。例えば哲学は、「現実」や「フィクション」という概念そのものの意味を問い直すのだ。他方で、生物学や歴史学に従事する研究者が、改めて「現実とは何か?」ということを問い直す光景は、あまり見ることはできない。哲学は、世界に関する根本問題を自由に問う領域を私たちに残してくれるのだ。

 「実在」や「フィクション」を問い直す

 さて、前回の記事(上)において、私はたった一つの武器、「哲学」を手に「VTuberとはどのような存在なのか?」という問いへの挑戦を始めたという話をした。そして、「哲学」という学問と、「VTuber」という文化現象は、非常に相性が良いのである。

 VTuberは、単にリアルであるとも、単にフィクションであるとも言えないような存在の在り方をしている。VTuberを完全にリアルな存在と見ることもできないし、完全にフィクションの存在であると見ることもできない。そこには独特な種類の実在感がある。だが、ここで言われている「実在感」の内実を分析することこそが、私たちには求められている。そして、伝統的に「実在」や「フィクション」といった事柄を概念的に分析してきたのは、哲学であった。哲学こそは、「VTuber」と呼ばれる存在者の在り様を厳密に分析するための視座を私たちにもたらしてくれる知的営為なのである。

 また、『VTuberの哲学』は、単にVTuberについての体系的な分析を提供するに留まらない。VTuberを分析の素材にして、「哲学的に思考すること」のモデルケースを提示することをも目的としている。「何かのテーマについて哲学的に考える」ということは、容易なことではない。大昔の哲学者の考え方をそのまま当てはめれば良いという話でもないし、独創的な概念を自分で生み出してそれを考察対象に適用すれば良いというわけでもない。「哲学的思考」を実践するためには、その前段階として「思考の型」をモデルケースとして学ぶ必要があるのだ。本書『VTuberの哲学』は、そうしたモデルケースを提供することをも目的としている。

 『VTuberの哲学』の存在意義

 だが、本書『VTuberの哲学』にそうした目的があるとしても、それがメインの目的であるというわけではない。本書の第一目標は、あくまで今日のVTuber文化の発展を担うVTuberたちの独自の魅力やその在り方を理解することである。

 確かに、VTuberという存在の在り方を徹底的に考えなくても、VTuberたちによって紡がれるコンテンツを楽しむことはできる。だが、VTuberの配信実践の特徴やその魅力について理解した上でVTuberのコンテンツを視聴すれば、その楽しさをさらに深い次元で味わうことができるようになるはずだ。

 本書『VTuberの哲学』の目次は次のようなものである。

第一章 VTuberの類型論と制度的存在者説
第二章 VTuberの身体性の問題
第三章 VTuberのフィクション性と非フィクション性
第四章 VTuberの表象の二次元/三次元性
第五章 生きた芸術作品としてのVTuber

 どれも、「VTuberを視聴してきたリスナーであればふと疑問に思うこと」を議論のテーマにしている。例えば第一章においてはVTuberの多様性をいかに考えることができるのかをテーマにしているし、第二章においては、ときとして現地ロケを行ったり素肌を見せたりするVTuberの配信をテーマにしている。第三章は、(ある意味最も論じにくいテーマである)VTuberのフィクション性(および非フィクション性)がテーマになっている。第四章、第五章は美学の問題関心を扱っている。

 『VTuberの哲学』においては、三桁にものぼるVTuberの実例を議論で扱っている。VTuber文化に親しんできたリスナーの方であれば、「こんな配信もあったなぁ」と懐かしい気持ちになりながら本書を読んでいただきたいし、VTuberをあまり知らない方であれば、「こういう動画もあるのか」と(適宜本書で取り上げている配信をYouTube等で検索しながら)本書を読んでいただきたい。

 本書の存在が、VTuber文化の魅力とその構造を理解するのに寄与するのであれば、筆者としてこれ以上に幸せなことはない。

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