ある日、娘が不透明になった 古田徹也『このゲームにはゴールがない――ひとの心の哲学』
記事:筑摩書房
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心とは何だろうか。なぜ我々は心をもつのだろうか。なぜ、我々には心が必要なのだろうか。
幼稚園に通う娘の弁当を作り始めて1年ほど経った日のことだ。焼き海苔を敷いて巻く卵焼きに凝っていた私は、いつものようにそれを作って、弁当に入れた。
3歳半になる娘は、夕方、いつものように弁当箱を空にして帰ってきた。私は何気なく、「今日の卵焼きはどうだった?」と尋ねた。娘は反射的に「あれ嫌い……」と口走った後、明らかに、しまったという顔をした。顔がみるみる赤くなり、もじもじし始めた。そして、消え入りそうな小さな声で「嚙みきれなくて……でも」などと言い、何とか誤魔化そうとしだした。
そのとき私は、娘の好みでないものを得意になって作り続けていたことを恥じ、申し訳なく思ったが、それ以上に、娘が本音を隠そうとしたことに驚いた。そして、娘が弁当のおかずに関してずっと我慢し、表に出してこなかったこと、私に気を遣っていたことを知った。
それまで、この幼子(おさなご)は私にとって、裏表のない分かりやすい存在だった。料理を美味しいと思っていることも、楽しんでいることも、怒っていることも、顔を見たり声を聞いたりすればはっきり分かった。全く疑問の余地はなかった(少なくとも、そう思っていた)。けれども、この卵焼きをめぐるやりとりを契機に、娘がいつの頃からか、自分の本当の気持ちを内面に押しとどめ、嘘をつけるようになっていたことを知った。彼女がにわかに不透明な存在になったように感じた。
この変化は、わが子が成長したことの証しであり、親として喜ぶべきことだ。とはいえ、多少なりとも複雑な感慨を覚えたことは否めない。この子の純粋で無垢な時期はもう過ぎ去ってしまったという思いだ。
我々はしばしば、他者の心を見誤り、曲解し、そこから衝突やすれ違いが生まれる。相手がどう思っているか、何を考えているかが不安になり、そこから不信や怖れが生まれる。他者の不透明さは、我々が人生のなかで経験する苦悩の主な原因のひとつだ。
他者の心をめぐる苦悩から逃れることはできるのか。他者の心を確実に知ることは果たして可能なのか。「他我問題」とも呼ばれるこの問いに対して、哲学者たちはしばしば絶望的な回答を提示してきた。曰く、真の意味で他者の心を知ることはそもそも不可能である。なぜなら、人が認識できるのは他者の外面的な振る舞い(表情、身振り、声など)だけであり、心はそこから推し測るしかないからだ、と。
これは、哲学において「懐疑論(懐疑主義)」と呼ばれる伝統的な立場の一形態だ。他者が何をどう感じ考えているかはどこまでも推測にとどまり、知っていると言い切れる地点に達することはありえない。――この「他者の心についての懐疑論」を、我々が乗り越える術はあるのだろうか。この懐疑論は本当に正しいのか、それとも、間違っているのか。あるいはそれ以前に、この懐疑論は何を言っているのだろうか。何を意味しているのだろうか。
最後の点に関して、現代アメリカを代表する哲学者スタンリー・カヴェル(1926‐2018)は、たとえば主著 The Claim of Reason において、次のような独特の見解を示している。
……他者の心についての懐疑論は、懐疑論ではなく悲劇である。(CR:xxii-xxiii)
この一節は、他者の心に向き合うこと、他者を理解することに関して、重要な示唆を与えている。カヴェルがこの一節に込めた意味、また、彼自身の議論を超えてこの一節がさらに含みうる意味については、後で詳しく追っていくことになる。
とはいえ、ここでさしあたり、この一節が次の二つの論点を含意しているということは触れておくべきだろう。ひとつは、他者の心についての懐疑論という理論は成り立ちがたいということ。もうひとつは、人がこの種の懐疑論へと向かうなかで立ち現れているのは、実は理論の類いではなく悲劇だ、ということである。(では、その悲劇とは何か――)
本書は、主としてそのカヴェルの議論と、彼が決定的な影響を受けているルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の議論を交互に取り上げながら、懐疑論を手掛かりにして、ひと(他(ひと)、人(ひと))の心というものの本質的な特徴を探究するものだ。
まず第一章では、「他者の心についての懐疑論」の内実を、「外界についての懐疑論」との比較の下で輪郭づける。その過程で、他者の心中(しんちゅう)――心のなかで本当は何を感じたり考えたりしているか――についての懐疑論こそが、生活上の具体的な煩悶としばしば綯い交ぜになったかたちで展開される、最もリアルで深刻なタイプの懐疑論であることが確認できるだろう。
そのうえで第二章では、懐疑論の急所を突くウィトゲンシュタインの議論と、それに対するカヴェルの解釈の道筋を辿る。まず確認するのは、ウィトゲンシュタインが独自の驚くべき視覚から懐疑論の問題に切り込んでいるということだ。彼は懐疑論に対して、我々は他者の心を確実に知ることができる、という風に反論するのではない。そうではなく、「私は自分の心中は確実に知っているが、他者はそれを推測することができるだけだ」という物言い自体に混乱が見られる、と指摘するのである。この章では、「規準」および「文法」という、ウィトゲンシュタインの議論で頻出する概念をめぐるカヴェルの解釈を追跡しながら、懐疑論を(論駁するのではなく)分析する彼らの議論のポイントを浮き彫りにする。
次に第三章では、まず前半において、懐疑論の言葉は実のところ主張にまで達しておらず、自分自身に対してさえ意味を明確にできていない、というカヴェルの主張を見ていく。そして後半では、にもかかわらずカヴェルが、ウィトゲンシュタインの「規則のパラドックス」などを参照しつつ、懐疑論のある種の自然さを強調している次第を跡づける。カヴェルは、懐疑論をたんなる混乱した思考の産物として片づけるときに見落とされる重要な事柄を浮かび上がらせている。そしてその事柄こそが、〈懐疑論は理論ではなく悲劇である〉ということの意味に直結しているのである。
最後に第四章では、他者の心について、あるいは、人間の心というもの一般について、ウィトゲンシュタイン自身が何を論じ、何を示唆しているのかを探る。その道筋は、他者の心についての懐疑論はそもそも乗り越えられるべきなのか、また、人間の心の特徴とはどのようなものであり、その〈透明ならざるもの〉がなぜ我々に必要なのかを問うものとなる。
こうして本書は、自然科学とも社会科学とも異なる観点から、人間の心とは何かに迫っていく。また、同時に、人間が互いにかかわり合いながら生きるということの根本的な意味を問い直していく。
互いの不透明さゆえに、しばしば腹の探り合いとなる我々の生活には、常に破局の影が射している。しかし、そのような不安定で危うい生活こそが、我々が何よりも切実に求めるものでもある。この点を明らかにしていくことによって、たとえば冒頭で触れたような子どもの変化、つまり、子どもが嘘をついたり演技をしたりする存在になるということを、「純粋で無垢な時期の終わり」といったものとは別の観点から捉えることが可能になるはずだ。
娘が卵焼きの味について本音を隠したと気づいた後、彼女は私にとって遠い存在になり、それによって、むしろ以前よりも近い存在になった。――いまの段階ではこのように矛盾めいた雑な表現しかできないが、本書の道行きの過程で、この撞着あるいは相即の内実が次第に浮かび上がってくるだろう。
(『このゲームにはゴールがない――ひとの心の哲学』はじめにより)