1. じんぶん堂TOP
  2. 哲学・思想
  3. 何すごクサカベクレス――哲学YouTuberネオ高等遊民はなぜ『ギリシア哲学30講』の独自性を絶賛するのか

何すごクサカベクレス――哲学YouTuberネオ高等遊民はなぜ『ギリシア哲学30講』の独自性を絶賛するのか

記事:明石書店

日下部吉信著『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から』上・下。(撮影・写真提供:ネオ高等遊民氏)
日下部吉信著『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から』上・下。(撮影・写真提供:ネオ高等遊民氏)

クサカベクレスとは何か

 本書抜きに古代ギリシア哲学者たちの意義と精神の偉大さを論じることは不可能。そう断言するほど稀有の良書である。

 クサカベクレスとは『ギリシア哲学30講』著者の日下部吉信氏のあだ名であり、本書評の執筆者・哲学YouTuber ネオ高等遊民はその命名者である。

 私は学術機関には属さず、YouTubeを発信母体として哲学解説に携わる者であるが、古代哲学の解説動画を作る参考文献に『ギリシア哲学30講』を読み衝撃を受けた。以降、拙チャンネルで日下部氏をギリシア哲学者っぽく「クサカベクレス」と勝手に名付けて紹介しまくっていた。

 あるとき動画が氏の目に止まったようで、私は「これは怒られる」と内心冷や汗をかきながらも、YouTuber根性でネタにしていたのだが、やはり『30講』のようなスケールの大きい本を書くだけあってクサカベクレスは気宇壮大、このあだ名を気にいり対談することにまでなった。(逆に冷や汗どころでは済まなくなった)

 そんな機縁で『ギリシア哲学30講』書評を拝命した。なぜ哲学YouTuberは本書をとりわけ推薦するのか。ほかにも良質な古代哲学史はたくさんあるのに、クサカベクレスはいったい何がすごいのか? これが本書評のテーマだ。

2021年7月31日のオンラインイベント「クサカベクレス×ネオ高等遊民」に向けてネオ高等遊民氏が作成した告知&事前勉強動画①より。クサカベクレスに「宣戦布告」しており、イベントは開催前から盛り上がった。これらの動画は現在も視聴することができる。
2021年7月31日のオンラインイベント「クサカベクレス×ネオ高等遊民」に向けてネオ高等遊民氏が作成した告知&事前勉強動画①より。クサカベクレスに「宣戦布告」しており、イベントは開催前から盛り上がった。これらの動画は現在も視聴することができる。

現代の優位性を排し、古代哲学を生きた思想として現出させる

 クサカベクレスおよび本書のすごさを1つだけ挙げるならば、古代哲学者を決して貶めず、その偉大さを明らかにしたことだ。

 原初の哲学者たちと向き合うクサカベクレスの姿勢。ここさえ分かれば、上下巻あわせて800頁超にもわたる本書が、精神の大河ドラマとも言うべき快著に変貌する。

 なので、少し回り道しながら伝えてみたい。

 まず一般的な傾向として、私たちは現代の価値観で古代の哲学者を評価しがちだ。もちろん重要な視点ではあるものの、進歩史観的な考え方が入り込み、その気はなくとも古代を遅れたもの、劣ったものと見なす傾向がある。(哲学なんかまだマシで科学や数学はもっとひどい)

 例えば「万物の根源は水」との説が帰せられるタレス。彼の意義は「神話的思考から科学的思考への転換」などと説明されるものの、いったい万物=水のどこが科学なんだと聞かれれば、当時の水準では革命的な発想だったといった説明が定番だ。これは評価というより、単に古代人の知的水準を下に見ているのだ。

 あるいは原子論者デモクリトス。原子論は比較的恵まれた評価を受けている。その理由は「原子」なる概念が、現代科学的な考え方と不完全ながらも共通点が多いと思われているからだ。もちろん両者は本当は全然違う。それは百も承知で「デモクリトス、いい線いってる」と褒めあげる。

 いずれにせよ、現代のほうが優れているという謎の前提は動かない。古代の学問は現代優位の価値観で評価されがちだ。「いい線史観」とでも名付けたくなる。

 一方でクサカベクレスは彼らを決して貶めずに、偉大さを明らかにする。

 具体例はデモクリトスの章。『30講』でぜひ読んで頂きたい章の1つ。

 細かい解説は省くが、クサカベクレスは単なる思想の解説では飽き足らず、哲学者の本質とその意義に迫る。かみ砕いていえば「デモクリトスって結局何してんの?」という素朴な質問に対して答える叙述だ。

 このやる気のない中学生みたいな質問は意外と手ごわい。通常なら先述のように「のちの唯物論や機械論にもつながる原子という概念を考えたエラい人」などと回答されるが、やはり「古代人にしては頭がよかったんだね」と言ってるだけだ。近現代の優位性は揺るがない。

 ではクサカベクレスは中学生に何と答えるか。

デモクリトスはまた世界は無数にあると考えましたが、それは彼が、原子の運動が永遠であり、また空虚も無限である以上、無限の過程の中でさまざまな世界が形成されたはずだと考えたからであります。(中略)われわれの世界はそういった無数の世界の中のひとつに過ぎないのであります。これは、自分の世界を唯一絶対と考える不遜と頑迷を宇宙的規模において破壊するという点で有意義な思想であります。(上巻 384頁)

 こんなデモクリトスの意義は、聞いたことがなかった。ここには現代の優位性など何一つない。デモクリトスや原子論が対等な立場から、我々の価値観を問いただしてくる生きた思想として現れていると言えよう。

 こんなふうに古代思想のリアリティを伝える点こそ本書の魅力だ。次項でさらに具体的に説明してみよう。

『30講』は古代ではなく、じつは現代を論じている

 デモクリトスの意義について、教科書的理解(いい線史観)とクサカベクレス的理解の違いは、その学びがある種の体験として現れるかどうかの違いといえる。

 まず定番どおりに機械論モデルの先駆けなどと理解する場合、原子論は科学の歴史の一コマに位置づけられ、我々の生活に対して特別なリアリティを与えることはなく、我々は原子論に関する情報・雑学的知識を得るに止まるだろう。

 一方でクサカベクレスのごとく、原子論を人間の不遜と頑迷さを破壊する思想として理解するならば、現代の私たちにもそのまま通用する話となり、自らの生活やあり方を問い直す契機、ある種の実感(または反感)を伴う学びになりうる。

 つまり、哲学史を学んだ結果が我々の価値観の追認となるのか、あるいは吟味となるのか、これほど大きな違いがあると言える。

 もっと言えば、実は私たちは、古代の哲学者たちによって自分たちのあり方が吟味されかねないことを敏感に察知しているのではないか。だからこそ、彼らをむしろ意図的に歴史の一コマとして標本化し、真の意義を封印しにかかっているのではないかと勘ぐりたくもなる。封印すれば私たちの立場は脅かされることなく、安心して現代の優位性を確保できるからだ。

◇ ◇ ◇

 さて、ここまでの話を一言で表すならば、この私たちへの揺さぶりが『ギリシア哲学30講』のスタイル、叙述の圧倒的迫力の源泉ということだ。

 だから本書は当然、単なる古代哲学史の解説にとどまらない。むしろ本当に論じたいのは、現代の私たちの価値観の問い直しである。ギリシア哲学史はその手がかりである。

 そのモチーフはいたるところに現れる。たとえば「主観性と存在の二大原理」の抗争というクサカベクレスの根本的な哲学史観も、私たちのものの考え方が、いかなる歴史をたどって現在にいたったかを見定めるためのアイデアだ。

 このアイデアを念頭に歴史を眺めると、私たちひとりひとりが現在抱いている価値観・ものの考え方は、決して偶然の産物ではなく、歴史の必然的な結果と理解される可能性が生じる。

 どういうことか。まず実感として、私たちはまわりの環境に規定されつつも、ある程度自由にものを考えている。実際、生活の中でわれわれはいつも、これは望ましいもの、これは望ましくないものなどと判断しながら生きている。

 しかし、その自由な判断とは、2500年の思想の歴史のなかで必然性をもって形成されてきた価値観であることをクサカベクレスは示そうとする。

 こんな話は反感を引き起こしかねない。では我々に自由はないと言いたいのか。ならば所詮は現状追認よりない、決定論的・悲観論的な話にすぎないのではないか。古代など持ち出して、我々のものの考え方が歴史の必然の結果などとしたり顔に指摘したところで、古代に戻れるわけでもなし、実質何も言ってないに等しい。そんな異論も出るだろう。

 だがそうではない。クサカベクレスは、私たちがより自由なものの考え方を獲得し、よりよく生きるための解決の糸口を探っている。その糸口こそ初期ギリシアの哲学なのだ。そのことを次項で話してみよう。

「主観性の原理」などの難しい概念を用いる理由は、我々の現在を捉えるため

 クサカベクレスは、近代つまり私たちのものの考え方一般を規定する原理を「主観性」と見定める。根拠のない主観的な考えという意味ではない。物事を考えるにあたって、対象の合理的・明証的な理解を試みる思考法という程度の意味だ。なので再現性のような客観性も「主観性」の考え方に含まれる。

 各人が主観と見なされれば、ものの見方ができるだけ客観的になるよう努めることになる。そのために合理性・明証性・再現性といった評価を用いつつ、主観と客観(または言語と実在)が一致するような仕方でものを考えねばならない。不明瞭で理解できない箇所がないように考えねばならない。

 合理的・明晰判明を旨とする主観性の原理の枠組みの中で、哲学を含めたあらゆる学問は、日進月歩してきた。

 しかし、その主観性の原理ではとらえきれず、こぼれおちてしまう非合理で不明瞭なところはもちろんある。その取りこぼしを見つけ、問題にするのが現代思想の主な潮流だ。

 それどころか現代思想は近代の主観性を積極的に告発する。すなわち、その取りこぼしは決して過失ではなく、理解できない事柄を不合理なるものとして意図的に排除しているのだと、主観性に基づくものの考え方を批判する。

 このように「主観性の原理」なるものを想定してみると、現代哲学が近代のなにを批判しているのかも、かなり見通しが立つだろう。

 で、この話と古代ギリシアと、何の関係があるのか。

 クサカベクレスの見立てでは、初期ギリシア哲学が展開された時代こそ、「主観性の原理」にとらわれないものの見方をしていた時代だ。この時代にこそ、私たちが意識すらしないほどどっぷり浸かってしまった価値観を発見・相対化できる鍵がある。

 今さら初期ギリシア哲学を我々が学ぶ意義がなにかあるのだとしたら、ここ以外にはない。現代を問い直すために、古代をたずねるのだ。それ以外の動機では、先述のごとく体験を伴わない雑学的知識が増えるにすぎない。

 ヘラクレイトスはピュタゴラス(主観性の親玉)を批判するためにこう言った。「物知りは知恵を教えない」。

◇ ◇ ◇

 何よりも伝えたかったことは以上だ。

 もし私たちが、己の持つ価値観や常識になんの不満もないならば、古代の哲学を学ばなければならない理由などどこにもない。しかし、もし私たちがなにか現代はおかしいと漠然とでも感じて、なにか不満や苦しみを抱えているならば、『ギリシア哲学30講』を手に取ってみてほしい。

 もしかすると、ご自身の違和感や苦しみの正体が少し明らかになるかもしれない。クサカベクレスが何度も述べる「存在の現われ」といった言葉はそのように理解すればよい。

 これで『ギリシア哲学30講』は、1章1章が現代を問う知的刺激に満ちあふれた稀有の書と感じられるようになる。冒頭に述べたように、本書抜きに古代ギリシア哲学者たちの意義と精神の偉大さを論じることは不可能であるとも納得していただけるはずだ。

上述のオンラインイベントより。日下部吉信氏=写真左=の第一声は「クサカベクレスでございます」だった。イベントは、クサカベクレスの謦咳に接しようと、多数の参加者を集めた。
上述のオンラインイベントより。日下部吉信氏=写真左=の第一声は「クサカベクレスでございます」だった。イベントは、クサカベクレスの謦咳に接しようと、多数の参加者を集めた。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ