セカイを語り直す風穴を穿つ――松岡正剛が説く、なぜ「別日本」でいいのか(上)
記事:春秋社
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いま私は八〇歳なのだが、いろいろやり残したことがあって「ああ、しまった」と思うことがあまりに多くて困っている。とはいえ、これまでの準備不足のせいで、いまから着手してもまにあわないだろうことも少なくない。たとえば複雑系の科学や数学についての考え方を展望する、意識の正体を抉るための脳と心についての見方を確立したい、性や配偶子の生物学に新たな推理をほどこす、言語の発生についての有力な仮説を提案することなどは、とうてい組み立てられない。
けれども、これまで何度かアプローチしながらも、私の怠慢でその詰めを放置していたこともある。数年前から、この放置案件だけはなんとか仕上げに向かわなければならないと思ってきた。荷物はまとめると三つ、あった。
ひとつは日本という国の問題である。いったい日本って何なのかというのではなく、日本についての語り方が昭和期にひどく歪んでしまって、そこを修繕する方法が敗戦・占領以来ずうっと低迷したままになっている事情、あるいは欧米型のグローバルスタンダードに向かうだけになっている事態に、それなりの風穴をあけて、この荷物の中身をあからさまにしたいということだ。
もうひとつは、日本仏教をどのように語っていけばいいのかということである。たくさんの僧尼たちがいて、各地各寺で日々の行事が維持され、学識者の研究成果もありながら、現状の日本仏教は活動力を失速したままにある。そこをなんとかしたい。この荷物は重くて、ちょっと厄介だ。
三つめは、和歌・能・茶文化・書・三味線音楽などの遊芸の真骨頂、およびマンガ・ファッション・ゲームなどのサブカルチャーの面白さを、いまあげた日本の語り方や日本仏教につなげるために、私がかかわってきた編集的なイメージ・エンジニアリングを駆使した工夫をそこに集中して加えることである。これならなんとか着手できる。
では、どのようにしていくか。理論的な構築だけでは足りない。あるとき、三井寺の福家俊彦長吏らの案内で園城寺から逢坂山に及ぶ界域に散在する別所を訪れているうち、以上の課題を近江に注いでみたい、近江でこれらの荷を解きたいと決断した。こうして、名付けて「近江ARS」プロジェクトが始まった。ARSと銘打ったのは日本・日本仏教・サブカルズをアートで染め上げたいという気持ちをあらわしたかったからだ。四年ほど前のことだ。
ただちに福家長吏、石山寺の鷲尾龍華座主、ファウンダーの中山雅文、プロデュースの和泉佳奈子を中心に、近江各地から「近江ARS」賛同者が集まった。私は隈研吾・田中優子・樂直入・熊倉功夫・本條秀太郎・山本耀司・小堀宗実・森山未來らに声をかけ、一方で末木文美士に日本仏教史講義「還生の会」全八回を三井寺でしてもらう用意にとりかかり、他方で近江を代表する菓子司の叶匠壽庵での節会を毎年ひらく手立てを組み立てた。
二〇二一年十二月三日、キックオフ・イベント「染め替えて近江大事」をびわ湖ホールで開いた。舞台に「別」と大書した壁代を立てた。別所の「別」であり、「別様の可能性」を告げるための「別」だった。私はコンティンジェンシー(別様の可能性、偶有性)こそ、今日の思想の最前線に躍るべきだと確言したのである。
近江ARSの活動はすこぶる多様になった。その活動はそのつどカメラワークによって刻々記録され、末木さんの講義録を春秋社が刊行することにもなった。二年ほどたつと、プロジェクトがかなり多彩に広がっていき、そこに「日本」と「日本仏教」が問われていることの意図が静かに波打つようになっていた。しかし、その意図の中身はやや複雑すぎて、なかなか核心が伝わらない。とくに「近江」と「仏教」が掛け算されているところがわかりにくい。
これはドキュメンタリーなプロジェクト・ブックにして伝えるべきだろうと私は判断し、ここから『別日本で、いい。』の編集制作が起動した。「近江ARSいないいないばあBOOK」というメディア名を付けた。
六十人をこえるスタッフやライターによる本づくりは、壮観だった。一年半ほどをかけて全容が整っていった。私も編集の腕を奮い、返す刀で私が言いよどんできたことをこのさい本気で吐露するべきだと思い、八〇ページにわたる「世界の語り方を近江から変えてみる」を書き、そのほか「どうする?日本仏教」や「近江ARS十七景」を添えた。私自身の「いないない・ばあ!」のつもりだった。