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人本来の感覚はどこまで掘り下げられるか? 足・手・口・頭……身体の部位から日本の文化・作法をとらえ直す

記事:晶文社

『先祖返りの国へ 日本の身体-文化を読み解く』(晶文社)
『先祖返りの国へ 日本の身体-文化を読み解く』(晶文社)

「歩く」はカラダとアタマの万能薬

エバレット・ブラウン(以下ブ):このあいだ、僕のアメリカ人の友人が日本に来たんです。彼は脳梗塞で左半身が麻痺していて、僕の知り合いの鍼灸師の先生に治療をしてもらうために来日したんですね。その友人は脂っこいものとお酒が大好きで、肝臓が弱っているのですが、先生はちょっと施術しただけでそれを見抜いた。というのも、東洋医学では、ツボとツボをつなぐ「経絡(けいらく)」というのがあります。それで探ってみると肝臓と経路でつながっている足の裏のツボが、一番麻痺が強かった。それでわかったというんですね。

エンゾ・早川(以下エ):なるほどねえ。

:僕は東洋医学を学んだことがあると言いましたが、なぜそうしたかというと、一九八八年に初めて日本に来たとき「まずは東洋医学を勉強しないと、日本人や日本文化のことはわからない」と思ったからなんです。というのは、東洋医学では、たとえば左の足首のこりを治すために、全然ちがう場所に施術したりするわけですよ。そういう、身体全体を一つの循環システムとしてとらえる見方が新鮮で、これは東洋に独特だと思ったのです。

:結局、人間の身体には、神経とリンパと血液の三つの流れがあって、その流れをよくするというのが、東洋医学の基本ですよね。僕も漢方を飲んでいますが、漢方の基本もやはり「血流をよくすれば、色んな病気がよくなる」というものですね。

:そうですね。

:もちろん症状に合わせて細かく調合を変えたりするのですが、やはり血流をよくするというのが重要なコンセプトの一つになっている。血流がよくなれば、老廃物や余分な水分などもオシッコになって排出されるという考えで、理にかなってるんですよね。

:西洋医学だと、患部を積極的に治療してしまおうと考えますが、東洋医学の場合は、まず自分の身体の循環をよくして、結果として間接的に症状をよくしよう、というものですからね。それで、その友人が鍼灸師の先生に言われて一番戸惑っていたのが、「血流をよくするために、ミミズを食べろ」と(笑)。

:ミミズ!?

:漢方の錠剤になっているのですが、友人はそれにものすごい抵抗があって、最初に買ったぶんは飲まなかったんですよ。結構高いのに。

:そりゃ嫌だろうな。僕だって嫌ですよ(笑)。

:だから彼も飲まなかったのですが、それが先生にバレて怒られてしまったんですよ。でも本当に、血流をよくするにはミミズが一番らしいんです。つられて僕も飲むようになったのですが、効果は実感しますね。特に脳梗塞や認知症の予防などには、ミミズが一番なんだそうです。

:へえ、それは驚きだなあ。

:血流ということでいうと、シモの方も元気になりますし。

:それはちょっと心惹かれるなあ(笑)。

:まあそれは余談ですが、面白いのは、東洋医学において、足指と脳がとても関係があることなんですよ、足指を治療するために、後頭部、脳幹のあたりを刺激したりするんです。それだけでなく、さきに触れましたが足裏にはさまざまなツボがあって、たくさんの内臓の調子と密接に結びついている。だから、気功の世界では、「一番の健康法は歩くこと」と言われているんです。

:そうですよね。足裏を刺激してほぐすというのは、だれでもできる一番簡単で一番重要な健康法ですね。でも、これが、なかなかほぐれない。特に靴下と靴を履いて生活している現代では。

:だから、裸足で歩くというのが素晴らしい健康法なんですよ。自動的に足裏が刺激されて、内臓や脳の調子が整ってくるわけですから。

:そう、それで思い出したんですけど、最近オーストラリアでも、やはり裸足で歩くのが流行っているみたいです。自分の家から海岸などまで、アスファルトの道でも普通にペタペタ歩いていって帰ってくるんです。それがすごい気持ちいい、ということでブームになったらしい。たぶん、それも同じ話ですよね。

「歩く瞑想」のススメ

:そういえば、ブラウンさんは以前、一九九九年に奈良県の金峯山で千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)を達成した塩沼亮潤(しおぬまりょうじゅん)さんを撮影されていましたよね。千日回峰行って、歩くという行為の究極形みたいなものですよね。塩沼さんが歩くことについて仰ってたことってありますか?

:実はね、彼は今「歩く瞑想」を人びとに広めたいと考えているんです。

:ああ、なるほど。歩くときって、もちろん程度の差はありますけど、少なからず瞑想していますよね。

:そうですよ。

:僕はずっとロードバイクに乗っていますが、ロードバイクで一〇〇キロや二〇〇キロ、あるいは三〇〇キロメートル近く走ると、自然と瞑想に入っていきます。でも僕の経験上、自転車に乗っていても、瞑想に入らないひともたくさんいる。ちがいは何かというと、歩くのも同じだと思うのですが、やはりフォームが重要なんですね。フォームが悪くて、動きにストレスがあったり、どこかが痛くなっていたりすると、それが邪魔して瞑想に入れないんです。

:山伏修行でもそうですね。力をこめて頑張って歩いていると、疲れる上に、瞑想状態に入れない。

:それと、歩くのも自転車で走るのも、信号とか他の通行人とか、周囲の状況に気を配っていなくてはなりません。だから、脳が二層式になっている感覚なんですね。片方では周りに注意し、もう片方では瞑想しているという。

:面白いことに、坐ってする瞑想も同じなんですよ。もちろん信号などに注意する必要はありませんが、坐禅のとき、外界にたいしてものすごく敏感になるんです。それと同時に、意識の奥では深く瞑想しているという。和尚さんが周りを歩いていたりするのはそのためなんです。外への注意を保ちながら、内へ深く入る。

:へえ、なるほど!

:普通に考えると、周りのことをすべて忘れて、頭をフルで使ったほうが、いい精神状態になる気がしますよね。ところが、それだと“思いこみの世界”になってしまう。

:客観的に自分を見る自分がいなくなってしまうんですね。それってたぶん、一種の躁状態になっているんじゃないですか。僕もね、そういう状態で書いた原稿を、翌日読み返して死ぬほど恥ずかしくなることってありますよ(笑)。

ヘミングウェイ、孔子、アインシュタイン

:まあ、瞑想というと少し宗教がかったニュアンスになってしまいますが、たとえば昔の偉大な作家や哲学者、科学者が、「散歩しながら考えた」という話は数限りなく聞きますよね。机の前に坐っているくらいなら、外に出て歩けと。

:古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、弟子たちと散歩しながら議論をしたそうですし、中国の思想家、孔子は『論語』に「博打でもいいから手を使え」という言葉を残していますね。つまり「アタマとカラダの両方を常に動かしていかなきゃいけない」ということですよね。

:そのとおりです。アメリカのノーベル賞作家のアーネスト・ヘミングウェイも、立ったまま書いていたんですよ。胸くらい高さのある本棚の上に、タイプライターをおいて。

:それは素晴らしい話ですよね。つまり、過去の偉人たちは、そうやってアタマとカラダの調子を保つ術をいろいろと編み出していたということですよね。そこから僕らは今、いろいろと学びとらなきゃいけない。ただ単に「ああ、立って書いてたんだ、変わったひとだね」とすましてはいけないわけで(笑)。

:他にも、ピューリッツァー賞を四度受賞したアメリカの詩人、ロバート・フロストは、リンゴのなる季節に集中的に詩を書いていました。彼の場合は坐って書いていましたが、机の下にリンゴを大量においておくんです。そのリンゴの香りで、詩の世界に入っていったというんですね。似た話で、一八世紀ドイツの詩人、フリードリヒ・フォン・シラーは、机の引き出し丸々一つに腐ったリンゴをいっぱいに詰めていたというんです。その匂いがないと、書くことができなかった。

:面白いなあ。同じリンゴでも使い方にちがいはあれど、それぞれ嗅覚の刺激によって思考を活性化していたんですね。

:こうしたエピソードから学べる一番のことは、「脳はアタマだけじゃない」ということですよね。

:ええ。

:今の情報化時代、脳というのはアタマ、思考のことだけだと思いがちでしょう。でも、脳というのは脳神経のことだと考えたら分かりやすい。そして、神経というのは全身につながっているんです。東洋医学の話とまったく同じで、身体全体が脳なんですね。

:過去の偉大な創作家たちは、そのことを本能的、経験的に知っていたということですよね。

:そうなんです。例を出すと枚挙にいとまがないのですが、ノーベル賞物理学者のアルバート・アインシュタインは、裸足が好きだった。よく裸足で海岸を歩いたりしていたそうですよ。もちろん、靴下は大嫌い(笑)。いつも素足にサンダルだったそうです。僕の大学の恩師も、彼は心理学者ですが、よく「天才的な発想がしたければ、足の親指で考えなさい」と言っていました。

:いい言葉ですね。

:あとは、古代の彫刻も面白いんですよ。古代ギリシャやエジプトの王や髪をかたどった彫刻を見るとね、必ず左足を前に踏み出しているんです。

:左足。

:そう。僕は滋賀県にある「MIHO MUSEUM」を訪れたときにそのことに気づいて、学芸員と話しこんだのですが、英語でなにかを決断するときに“put your right foot foward”つまり「右足を前に出す」というんですよ。そう考えると、右足は理性とか決断とかに関係があって、逆に左足は心や直感、あるいはクリエイティビティや神とのつながりに関係しているのかもしれない。だから、古代の彫刻はみな左足が前なんじゃないかと思ったのです。それ以来、なにかを決断したいときは右足から歩いて、インスピレーションが欲しいときは左足から踏み出すようにしているんです(笑)。

(『先祖返りの国へ――日本の身体-文化を読み解く』より抜粋)

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