「よりよい記憶」のかたち ドミニク・チェン ――山本貴光『記憶のデザイン』書評
記事:筑摩書房
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わたしは自分の記憶がどうなっているのか、年々わからなくなる。「どうなっているのか」など曖昧な表現になっているのは、自分自身の記憶の構造や新しい知識の覚え方、そして忘れ方といった全体像がよくわからないからだ。若い頃は記憶力が良いことを自負していたが、段々と人の顔と名前が結びつかなくなったり、どの本に何が書いてあったのかわからなくなったりしている。PCやスマホが浸透したことで、より多くの情報を処理できるようになった気ではいるが、果たして現代人はよりよく記憶できるようになったと言えるのだろうか。これは一概に断定できない、大きな謎である。堅牢な研究書ではなく、あくまでエッセイとして「よりよい記憶」のかたちについて自由に書かれた本書を通して、わたしは自分自身の記憶の来歴を想起することができた。
わたしが本書を読む中で最初に共感したのは、映画『イノセンス』(押井守監督)で登場人物のトグサーとバトーが、互いの発話に含まれるキーワードを瞬時にネットで検索しながら無線で語り合うシーンについての考察だ。わたしもこのシーンについて別の論点から書いたことがあるが、サイボーグの超人的な能力を描写しているようでその実、現在のわたしたちも似たようなことを行なっているように思える。会話中に「これ知ってる?」と問いかけたり、「あれ、なんだっけなぁ」と何か思い出そうとしながら、スマホで検索して相手に見せるということは誰でもやっていることだと思うが、『イノセンス』で描かれたシーンはこれの延長線にある。わたしたちは正確な知識を暗記するのではなく、内容にたどり着くためのインデックス(索引)を使っているのだと山本は言う。そして、そもそもわたしたちの書棚に並ぶ本の背表紙もまたインデックスとして機能しているのではないか、と言う。
ウェブ検索で使われるデータベースシステムもインデックスと呼ばれる、検索を高速化するためのラベリング作業を行うが、これは人間の記憶の仕方に着想を得た機能かもしれない。もともとコンピュータは「人が考えるように」情報を処理することを期待され、人口知能研究も人間の知能を理解するために始められたものだった。しかし、20世紀後半になると、いつのまにか人をコンピュータになぞらえるメタファーが浸透しはじめる。人の脳をCPUに喩えたり、記憶能力もハードディスク容量のように話されたりするようになった。マクルーハンはいみじくもメディア技術が人の意識を変容させると主張したが、わたしたちの記憶の仕方もまたクラウド上のデータベースの構造に従うようになっているかもしれない。「コンピューターの普及が記憶の外部化を可能にした時、あなたたちはその意味をもっと真剣に考えるべきだった」とは、映画『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(押井守監督)の人工生命「人形遣い」がサイボーグ化した人間に向かって放つ言葉だが、実際わたしたちは自分たちでも知らないうちに自分たちの作った技術に隷属するようになっている。
このように、本書の「記憶」というテーマは、わたしたちが物を考え、知識を作り出す根底を成している。本書が示唆するのは、巨大IT企業がよりよい記憶のかたちを実装してくれるのをただ待つ未来ではなく、自分自身で記憶の在り方を考え、工夫を施し、実験できる可能性だ。現代では情報技術が所与のものとして受け止められているように思えるが、そもそも情報技術とは誰でもプログラミングを学習すれば再定義できるものとして設計されていることを忘れてはならない。山本は本書の最後で二つ、よりよい記憶のためのソフトウェアを想像しているが、究極的にはひとりひとりが自分に適した情報環境を整えられるのだ。そして、もうひとつ重要なのは、情報技術はわたしたちが手にしている技術の一部分でしかないということだ。なんでもかんでも情報技術で解決しようとする強迫観念から、わたしたちはそろそろ自由になるべきだろう。