不詳であった尾崎翠の生涯のうち1932年9月からの一年弱を埋める、新発見の作品「書簡集の一部分」
記事:幻戯書房
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「書簡集の一部分」(本作発見者は加藤仁氏)は「都新聞」1933年(昭和8)2月8日、9日に「新人小品集」の第31、32回として、2回にわけて掲載された。8日には、背広にネクタイを締めややくたびれた様子の年配の男性を横向きに描いたイラスト(作者不詳)が、9日には尾崎の顔写真が掲載されている。後者は「日盛りと女流」(11)「魂の彷徨一番 尾崎翠さん」(「都新聞」1931年8月22日付朝刊第14頁)という無署名記事中の写真の転載と思われる。
「都新聞」は1884年(明治17)に夕刊紙「今日(こんにち)新聞」として発足、初代主筆は仮名垣魯文。現在の「東京新聞」の前身である。「書簡集の一部分」が掲載されたのは「新人小品集」の最終回にあたる。第1回は1933年1月4日付、福田清人「シヤボン玉の夢」(1)だが、なかで注目されるのは、同月8、9日(第5、6回)掲載の坂口安吾の佳品「傲慢な眼」であろうか。尾崎関連では、「第七官界彷徨」(1931)の初出誌『文学党員』に参加し、「歩行」(1931)が再録された『文学クオタリイ』にも寄稿していた榊山潤と阪中正夫(同誌には福田清人も寄稿)、女性作家では小金井素子(もとこ)、若手の戸川エマらが登場する。小金井は「アップルパイの午後」(1929)に「桑木博士の哲学概論」と登場する哲学者桑木厳翼の長女で森鷗外の甥小金井良一と結婚し、「こほろぎ嬢」(1932)初出誌の女性文芸誌『火の鳥』にも執筆した。戸川の父は英文学者戸川秋骨(しゅうこつ)。秋骨は「こほろぎ嬢」に登場するフィオナ・マクラウドも翻訳した。
尾崎が「新人小品集」に作品を発表した経緯は不詳である。ここに至る動向を確認すると、1931年2、3月に「第七官界彷徨」全篇の約7分の4を前篇・中篇として発表、6月に全篇を発表し、好評を博していた。それが同年8月の「都新聞」の記事「日盛りと女流」での取材に繫がったと思われる。しかし「都新聞」とそのような縁があったとはいえ、尾崎は病を得て翌1932年9月に鳥取へ帰郷、静養した。
ただ、随想「大田洋子と私」(「日本海新聞」1941年7月5日付)では「あの駄作〔「第七官界彷徨」か〕に次ぐ幾つかの連作を企てたりして心身の疲れ切った帰郷であったから、洋子はそのまま私が何年も疲労を持越しているものと考えているらしい。とんでもない事である。帰郷して二ケ月もするうち健康はとみに盛返して来た。〔略〕郷里は山が近いから空気は美味しいし〔略〕家の内外にはぼんやりしてしまう程の閑寂があったし、そんな事で案外早く頭の洗濯が出来たのかも知れない」と回想しており、1933年2月発表の本作の執筆が可能になったことが裏付けられていよう。
本作の発見は、これまで不詳であった1932年9月から翌33年夏にかけての尾崎の動向の空白を埋めるものである。また「書簡集の一部分」(1)が掲載された紙面には、偶然ながら、尾崎の本格的なデビュー作「無風帯から」(『新潮』1920・1)の評を書いた本間久雄の評論や、尾崎が東京で最後に発表した「地下室アントンの一夜」(1932・8)が掲載された『新科学的文芸』の終刊についての記事も出ていた。
帰郷後の尾崎は東京の知友と書簡を交わしており、自身の健康状態や執筆が可能かどうかも報告していたことであろう。「都新聞」文芸欄の功労者で当時は主任の上泉秀信と交流のあった榊山潤ら文学仲間による取り次ぎかは判然としないが、尾崎は「新人小品集」の執筆者となった。その約5ケ月後の7月には東京の啓松堂より単行本『第七官界彷徨』が出版され、9月には鳥取で出版記念会が開かれた。
「第七官界彷徨」全篇および「第七官界彷徨の構図その他」が掲載された『新興芸術研究』2 (刀江書院 1931.6)
国立国会図書館デジタルコレクション 個人送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/1869539
尾崎翠『第七官界彷徨』(啓松堂 1933.7)尾崎翠の直筆署名あり。
国立国会図書館デジタルコレクション 個人送信サービスで閲覧可能
https://dl.ndl.go.jp/pid/1234453
この頃の尾崎は確実に快復していたと見られ、鳥取の文芸誌等にも詩や随筆を寄せている。しかし、鳥取帰郷後の発表作でこれまで確認されていたのは随筆、評論や詩のみで、小説はこの「書簡集の一部分」が初めての発見である。本作に関わる同時代評として、尾崎が「「第七官界彷徨」の続篇を計画」しているという、鳥取県米子市出身で帰郷後の尾崎に会いに行った坂本義男の報告(「尾崎翠さんのこと」 『散文』2‐1 1934・1)と、「純文芸作家尾崎翠女史は故郷である鳥取に静養中である。目下短篇に執筆に没頭してゐるが、著書『第七官界彷徨』後の著書出版の準備と目されてゐる」(「鳥取文壇便り」 『大因伯』1934・10)という枝野登代秋(とよあき)の報告が挙げられるが、本作は「第七官界彷徨」の語り手と同名の「小野町子」による書簡という体裁であることから、実際に「続篇」と目しうる作品を書いていたことが判明し、坂本や枝野の証言を裏付けることとなった。
写真は『都新聞』1931年8月22日朝刊14頁掲載の無署名記事「日盛りと女流(11)魂の彷徨一番―尾崎翠さん―」(資料発見者は藤田加奈子氏)。「日盛りと女流」はこの年の8月12日から9月7日まで毎日連載された女性作家の紹介記事。次に「魂の彷徨一番 尾崎翠さん」の全文を紹介する。旧字体・旧仮名遣いは新字体・新仮名遣いに改め、ルビは省き、句点を補ったところがある。
彼女氏に何らか浮いたゴシップが起るとすればそれは天変地異の時だ! そうである、尾崎翠さん。それほどに彼女氏の生活のレールはまるで時計のようにキマッているらしい。
然し彼女氏は、物を書くにしても生活に直面した事柄は大の嫌い……謂わば心の中の作家である。だから幻想の中で遊ぶ事が好きだ。コカイン類似の薬品を五分間おきに常用しているとかいう話のあるのは噓か本当か知らないが……。そこで以て、「第七官界彷徨」という事にもなるのである。
そして彼女氏のえらい所は、あせらずに地道に勉強している所のようである。
カメラを向けようとすると、一週間も髪を洗わないから……と尻ごまれる。まるで髪の香(にお)いが写真に写りでもするかの如く彼女氏は信じていたのだ。
写真で尾崎は簡単服(アッパッパ)に下駄といういでたちである。尾崎は考え方が科学的、合理的だったと言われ、簡単服にも抵抗はなかったのであろう。この記事が掲載されたのは「第七官界彷徨」が話題になっていた頃だが、「第七官界彷徨」にも、翌9月発表の短篇「歩行」にも、少女の夏の衣服として「簡単服」が登場している。
尾崎は翌1932年夏、統合失調症急性期の状態にあったと考えられ、これを支えようと奮闘した一人が、尾崎と親交のあった作家高橋丈雄(1906―86)であった。しかし高橋の回想(坂本義男宛て書簡 1977.4.29)によると、このことが文壇でスキャンダラスに捉えられ、高橋が弄んで捨てたために尾崎はノイローゼになって帰郷したとの噂が立ったという。記事中「浮いたゴシップが起るとすればそれは天変地異の時」とあるように、文壇では「天変地異」と言えるほどの話題だったからこそ、事実と異なる噂が立ってしまったのであろう。
また「コカイン類似の薬品を五分間おきに常用しているとかいう話」とも書かれている。コカインは覚醒剤と並ぶアッパー系の薬で、摂取すると精神の高揚や多幸状態がもたらされる。大抵の場合神経が鋭敏になり、幻覚も見られる。しかし尾崎が常用し、飲みすぎていたのは頭痛薬のミグレニンであった。ミグレニンに幻覚作用はないが、当時はそのように理解されていたのであろう。なお尾崎には耳鳴りがあったようだが(要素性幻聴の可能性もあり)、ミグレニンの重い副作用による場合もある。耳鳴りや何らかの症状から、尾崎の周囲にはミグレニンが「コカイン類似」の薬品だと理解されたのか。高橋も尾崎が「ミグレニンという覚醒剤」を常用していたと書簡で回想している。
太宰治が高橋丈雄との会話で賞賛したという「こほろぎ嬢」(『火の鳥』1932・7)には「神経病に罹つてゐる文学」の一派として「コカイン後期派」という架空の作家群が挙げられているが、コカイン常用者として尾崎が興味を持ったのは、「ジキル博士とハイド氏」のスティーブンソン、「椿姫」のデュマ・フィス、また精神科医のフロイト等と考えられる。ちなみに日本の大正末期から昭和初年頃のコカイン常用者としては、折口信夫、平野威馬雄(いまお)が知られる。偶然にもこの二人の背後には尾崎と同郷で交流のあった、画家で民俗学者、コミュニストの橋浦泰雄(1888-1979)が見える。折口と橋浦は民俗学関係で縁があり、平野は鳥取県出身の詩人生田春月(しゅんげつ)、また大杉栄や辻潤との親交を介して、橋浦と面識があったとしても不思議はない。