大正時代に群馬県草津でハンセン病者に、看護師の三上チヨとともに尽くした女性医師の生涯
記事:幻戯書房
記事:幻戯書房
「三上チヨさんの墓碑建碑式が11月2日にあります。いらっしゃいませんか。その件で草津に行き帰宅したところ、あなたの手紙が来ていました。天の配剤です」という内容の手紙を受け取った。もう四十年以上前になるが、日本基督教救癩協会事務局長の井藤信祐氏からのものであった。
服部ケサの資料を求め、見ず知らずの方々に手紙を書いた。よくぞ返事を下さったと、今では思う。その件ならこの方が、あの資料ならあの方が、と紹介して下さり、資料を送って下さった。その中のお一人が井藤氏であった。私は渡りに船とばかりに群馬県草津町へ初めて行った。ハンセン病と関わることの始まりであった。
ハンセン病について知りたかったのではなく、自分自身がどう生きていけばいいか、手探りで過去の女性に学ぼうとしていた。現実にモデルとなる先輩女性と出会えず、過去に遡れば、時間を共有出来ずとも場は共有出来ると思ったのである。日本を考えるには、中央に対する地方の福島県に留まった方が日本が見える、と思っていた。そして学ぶべき女性は時代に埋没しなかった女性でなければならなかった。
たとえば服部ケサはどこからその活動のエネルギーが出て来るのか、知りたかった。そのような手紙を書いた。ご返事を下さった方々の中には「あなたはそのエネルギーの源がキリスト教であることを百も承知で、その信仰の何かを求めておいでなのでしょう」と書き、資料を送って下さった方もある。自覚していなかったことに言葉を与えて下さった。ハンセン病に関わった方々との出会いは、そのようなものであった。
その建碑式で林富美子医師にもお目にかかった。何も知らないことが良いこともある。林医師がどういう方なのか、井藤氏がどういう方なのか、また建碑式主催の日本基督教救癩協会がどのような団体なのか、ハンセン病がどういう病気でどのような歴史を持っていたのか、何も知らなかった。何の先入観も持ちようもなく、不治の病であった時代から可治となった後までハンセン病に関わり続けた方々の中に、飛び込むことになった。
林医師は私に「私たちのしてきたことが研究の対象になるなんて……そのこと自体が感動です。服部先生のことは忘れられてしまって……」と言われた。まだ研究のレベルにも達せず自覚も出来ない私は何も話せなかった。本書の林医師の言葉はこの時のものであり、最後の文章もご自身の祈禱書に書いて与えて下さったものである。
この時、建碑式に臨んだ方々は国立のハンセン病療養所・栗生楽泉園をも訪ねたので私も初めて楽泉園に足を踏み入れた。そこで楽泉園の小林茂信医師や入園者の加藤三郎氏にもお目にかかった。そこから栗生楽泉園との関わりが生まれた。というよりも、私が毎年楽泉園を訪れ、四十年以上もそばにいさせて貰ったということだろう。自治会の機関誌『高原』を2020年に終刊するまで四十年も送って下さった。本当に何の肩書もなく実績もなく、ただ知りたいと思っているだけの者を楽泉園の方々は受け入れて下さった。それは医療者でもなく被医療者でもない私にとって、人間性を試されているようであった。そこには心地よさと厳しさがあった。
楽泉園は湯の沢の歴史を経ているので自由地区があり、そこに普通の個人住宅が立ち並んでいた。そこにお邪魔してお話をしたり、一緒に温泉に入ったり、また園の建物にお住まいの方のところへ行き手料理をご馳走になったりした。どのお宅も庭をきれいに手入れされていた。園の中を自由に行き来出来るようになり、知り合いはどんどん増えていった。
草津へ行った翌1979年東京都東村山市の多磨全生園を訪ねた。庭の手入れの良さは楽泉園と同じであり、道路に盲導鈴があるのも同じであった。全生(ぜんしょう)園とあるのに話す人は皆「ぜんせい」と言っていた。どちらが正しいのか案内して下さった医師にお聞きすると、昭和16年に府県立から国立へ移管し多磨全生園とする時に読みを変えたという。「ぜんしょうえん」と言っても誰もわからないよ、ということであった。もう一つ。大風子油は私が耳で聞いていたのは「たいふしゆ」と清音であった。資料の中で読み仮名があるのは清音である。辞書では濁音であるが。
※大風子油は、大風子という植物の種子から得られる油。抗生物質などの治療薬が作られる以前はハンセン病の治療には大風子油注射しかなく、筋肉注射は激痛を伴い、効果も限定的だった。
分かる範囲で服部ケサを追ってきたけれど、決定的に知らない部分がある。キリスト教の信仰と医学の面である。そこから迫るなら、また別な服部ケサ像が立ち上がるだろう。私の年代では、服部ケサ時代の不治の病であったハンセン病の病状を既に知らない。知らないから当時の状況を知るには想像するしかない、と思ってきた。現在は想像するしかとさえ思わないところに来ているように思う。それは人類にとってとても幸せなことである。過去、病者に限らずハンセン病に関わった方々もきっとそう思うだろう。だが歴史を忘れてもいいということではない。精神の輝きを伴った、肉体も精神もギリギリのところで生きた人々を心に留めることは私たちを深く高くしてくれるだろう。
多くの方々に導かれて本書は出来た。ご遺族服部新市氏ご夫妻、ご子息英治氏、同じく晶三氏ご夫妻からの日記、また服部晶夫氏から託された書簡、これらの資料を使わせていただいた。大平馨医師は全生園で働かれた看護師たちの話を機会を作り、沖縄愛楽園で働かれた知念芳子看護師を紹介して下さった。沖縄で知念看護師から三上チヨの話を伺った。草津町の横山秀夫氏は服部ケサと妹テイ・水野仙子をそれぞれに追うことを助言して下さった。加藤三郎氏はずっと見守っていて下さった。お名前を挙げきれないあの方この方が浮かんでくる。利用させていただいた図書館も多い。
お名前を挙げた方々は多く故人となられた。このように導いて下さった方々に感謝を持って深く御礼を申し上げる。楽泉園で知り合った方々は次第に減り、とうとうお訪ね出来る方もいなくなった。
(2022年10月)