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「旅をしたかったのです!」――放浪の果ての出会い 『英国人尼僧、ティク・ナット・ハンと歩む』前篇

記事:春秋社

ティク・ナット・ハン師とシスター・アナベル・レイティ(左) 1999年、バーモントのグリーン・マウンテン・ダルマセンターにて ©Plum Village
ティク・ナット・ハン師とシスター・アナベル・レイティ(左) 1999年、バーモントのグリーン・マウンテン・ダルマセンターにて ©Plum Village

はじめに

 本書はアナベル・レイティ(法名トゥルー・ヴァーチュー、真徳尼)という英国人尼僧の人生の旅の物語です。彼女が出会った禅僧ティク・ナット・ハンはしきりに彼女に人生の来歴を書いてみるように勧めました。「書くことは瞑想です」と。人生を遡り、深く見つめ、思い出し、理解して文字に移す行為は、曖昧模糊として刻々と流れていく人生の時間に深い竪穴を掘り、自己というわが家に戻って「自己と一体になる」行為なのです。

 未だ旅の途中ではありながら、ここに描かれたものは、さまざまな他者や自己との間に交わされた対話の記録であり、また、物理的な今世の仕切りを超えて過去の潜在意識から呼び出された記憶との出会いの場でもありました。ひとはこの世に生み落とされた生の瞬間から死という仮そめの仕切りを超えてゆく瞬間まで、そして、そのあとも連綿と続く存在の連鎖・連続を生きるものなのかもしれません。

 新しいスタイルの自叙伝です。しかし、古から神話が語ってきた伝統的な英雄物語と読むこともできるかもしれません(もちろん誰もが英雄を生きうるという意味で)。故郷の子ども時代(第1部)、大学時代から内的衝動に駆られて夢中で未知の世界へと旅立つ東漸の時代(第2部)、そして求め行き着いた先が、現実・生身のこの身体の中に存在する「わが家」であったという発見(帰還)の時代(第3部)。故郷(ふるさと)はどこへもいかない、故郷は初めからこの生身の自己の中に現前と「存在していた」ことに気づく旅、自己への帰還の旅といえるかもしれません。この旅は誰もが確実に到着できる「今、ここのこの身体」がいかに「いのちに満ちている」か、を発見していく物語です。 

旅をしたかったのです!

 若き日の憧れを求めてギリシアを足がかりにインドに向かい、なかば挫折して帰国した彼女はふたたび地道な教員の生活に戻ろうとします。ラテン語やギリシア語を教える数少ない学校を探しても採用してくれる学校はありません。そんな試練のなかで、彼女が志望学校の面接で校長に発したことば「旅をしたかったのです」は、まさに本書の冒険譚のやむにやまれぬひと言でした。

 彼女は時折脳裏に浮かぶ不思議な記憶や夢を語ります。過去生からの記憶、夢による導きに惹かれた旅が始まります。

 故郷のコーンウォールの女子修道院の学校に通っていた9歳のころの「持ち金すべてを尼僧たちに捧げたい」という記憶は彼女の旅の原点の記憶であり、それはのちに1949年にこの世に生を受ける前の阿頼耶識(仏教の唯識思想における第八識)に蔵された記憶だったと語られています。また夢の中で高い壁が立ちはだかって苦労して登ってみると、一人の農夫があらわれて、「楽にこちらに来られる門があるのに、何故あんな高い崖を登るのかい」といって、入り口を教えてくれた。その夢の中の農夫は自分の父親だったという。また唯物主義と精神主義の葛藤に悩んだロンドン大学の時代には、「死は無になることではない」と論じたソクラテスやプラトンなどのギリシア哲学を学びたかったのは、そこに「苦しみからの出口」があるかもしれないという淡い期待からであったという。トカラ語の仏教文献の逸話(ある彫刻家が自ら彫った女性像に魅せられて命を吹き込もうとした話)や、心が外界を創造するという洞察に魅了されたこともあった。かつて司祭から学んだ「宇宙意識」(1)への不思議な感銘も彼女の旅の助走となった――「ロンドンの街角を歩いていたとき、一陣の塵が舞い上がって、すべてのものは不思議な方法で相互につながっていると分かったのです」。

なぜティク・ナット・ハンの仏教を選んだのか

 ベトナムの臨済禅に出自をもつティク・ナット・ハン禅師(1926-2022)(以下、タイ[「先生」の意]と記述)は1986年にひとりの英国人女性と出会いました(仏教徒平和協議会主催の英国リトリートの主催者側)。祖国ベトナムへの帰還の道が断たれたのち、タイ(とシスター・チャンコン)がパリから南西に下ったボルドー地方に仏教共同体・プラムヴィレッジを構えた最初期の頃のことです。上記の協議会のニュースレターに掲載されていたタイの詩"Call me by My True Names"(私を本当の名前で呼んでください)」(2)が取りもつ縁でした。

 さて、彼女の師となるタイの心に菩提心(発心)の種を蒔いたのは、9歳のときに食卓においてあった仏教誌『智慧の松明』の表紙のブッダの姿でした。幼いタイの心に静けさと美しさを湛えたブッダの姿が焼きついた、と伝えられています――「わたしもこのようになりたい」。この仏教誌の編纂者が中国の太虚(タイフー)大師(3)でした。ベトナム戦争の砲火の中から生まれたタイの行動する仏教(Engaged Buddhism)の背後には、太虚大師の仏教近代化(人道仏教・命の仏教)の先例があったといいます。そのスローガンは次の3項目でした。

1 サンガの現代化と再編成
2 近代哲学としての仏教学の再建
3 ブッダの教えに基づいた人々の変容と社会改善

 太虚大師の仏教改革運動は、その死後、1949年の中国共産党の統一支配によって中断されましたが、西欧で息を吹き返したタイの仏教改革運動(行動する仏教)の骨子は、この大虚大師の仏教近代化の目標と酷似しています。その意味で、タイの西欧での活躍と地球仏教への道は、国外追放(亡命)という悲劇が生み出した仏教再・再生の足跡であったといえるでしょう――「日の下に新しきものなし」(旧約聖書・コレへトの言葉)。

 シスター・アナベルはインドに憧れ、チベット仏教の世界に身を投じていきます。ギリシアのアテネで出会ったアニラ・ペマ・ザンモ(イギリス生まれの女性として初めてチベット仏教の出家僧となってインドで活躍したシスター・パルモの弟子)との縁で、カギュ派の師範のケンポ・ツルティム・ギャツォ(「有徳の行為の海」の意)のもとで受戒し仏教徒となります(法名はカルマ・タシ・ザンモ)。そして北インドのティロクプール僧院、シェラブリング、シッキムでの禁欲的な耐乏生活の果てにカリフォルニアに流れつき、新たな気づき(洞察)に至ります――「過剰な物質的快適さや激しい苦行がなくてもブッダに出会うことができる」。

 しかし、シスター・アナベルがタイの「マインドフルネス」(正念の教え)にじかに触れるのは、1986年3月、寒風が吹き抜けるカンブリア州の城での英国リトリートまで待たなければなりませんでした。このときのタイとの出会いと感動が、シスター・アナベルが真に自己のいのちを生き始めた瞬間だったといえるでしょう。「ひとりぼっちだった私がタイに会えたのです! タイに会えてもう一度息を吹き返したのです」(本書第11章)タイの静かで美しい歩み(ウォーキング)、真っ直ぐに心に届く研ぎ澄まされた感性、詩心の発露のごとき法話(「一枚紙に雲をみる」、般若心経と「空」)、シンプルで、暖かく、実践的な仏教の教えがそこにあったのです。

(1) カナダの精神科医リチャード・M・バック(1837-1902)が、Cosmic Consciousness: A Study in the Evolution of the Human Mind (1901)で提唱した概念。
(2) Thich Nhat Hanh, Call Me by My True Names: the Collected Poems of Thich Nhat Hanh, Parallax Press, 1999 (邦訳、『ティク・ナット・ハン詩集――私を本当の名前で呼んでください』島田啓介訳、野草社、2019年).
(3) 太虚大師(1890-1947)は、ティク・ナット・ハンの霊的先祖の中でも重要な一人。人間仏教(生命の仏教)の指導者。1922年の夏、上海から四川(浙江)に赴き、成都で現代仏教のメッセージを広め、武昌仏学院を設立して人材育成の青年僧教育機関の経営などを行う。彼の死後、その仏教改革運動は1949年の中国共産党の中国全土の支配によって中断された(タイ国プラムヴィレッジ主催、応用仏教講座第5回講義の資料に基づく)。

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