「もうひとつの伝記」――タイと歩んだ「我が家」への道 『英国人尼僧、ティク・ナット・ハンと歩む』後篇
記事:春秋社
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シスター・アナベルはキリスト教と仏教の二つの伝統を生きる尼僧です。タイは西洋人の弟子に自分の宗教を捨てないで、それとともに生きる道(宗教の二重所属、ダブル・ビロンギング)を勧めました。ひとは育った土壌に根を張って、それぞれの生を深く見つめながら、自らの宗教的伝統の価値あるものに触れるとき、真の心の平和が実現するからです。
シスター・アナベルはタイのこの考えに導かれながら、先祖伝来のキリスト教という種を大切に育て、仏教の尼僧として両者の間に存在する共通点からより深く豊かな判断や洞察を紡ぎ出していきました。若き日のタイがアメリカのカトリック教会厳律シトー会のトーマス・マートン(1915-1968)と宗教を超えて交わした「兄弟の契り」のように、各々の宗教に生きながらそれに囚われず、他者の見解に心を開くとき、「神」、「涅槃」、「空」といった「ことばの壁」(概念)を超えて理解しあえ、両者のより深い領域に参入できるのです。
シスター・アナベルは2019年にこの自叙伝を出版し、その2年後の2021年にMindfulness:Walking with Jesus and Buddha (Orbis Books)(「マインドフルネス――イエスとブッダと歩く」未邦訳)を世に問いました。彼女は本書の中で聖書の中にあるマインドフルネスの視点や寓話を検証しながら、仏教とキリスト教のインタービーイング(相即・相依相関)の信念に至っています。それは師であるタイの生き方・揺るがぬ思想をキリスト教の立場から解明・実証していったものと言えるでしょう(1)。
タイの寓居にはイエス・キリストとゴータマ・ブッダが兄弟のように並び立つ絵画が飾られていました。タイは人類が互いに愛と敬意をもってともに実践していく霊性に満ちた宗教(コスミック・レリジョン)を夢見ておられました。人類の偉大な霊的遺産である仏教とキリスト教が、各々の神話や信仰や教義ではなく、インタービーイング(相互に関わりあうもの)の精神がもたらすエヴィデンスや洞察に基づいて歩むとき――両者が同じ方向を見つめて歩くとき――ブッダとイエスの霊性が真に人類の幸福に資することができるのです。シスター・アナベルはその先鞭のひと(実践者)といえるでしょう。タイは『生けるブッダ、生けるキリスト』の終章で、東西の真の対話のためには、真のエキュメニズム(全宗教間の協力と相互理解を推進する運動)の精神での対話が必要であり、イエスとブッダが教え示した本物の体験を生きることこそが、真に生きることだという有名な言葉を残しました。
あなたが本当に幸せなクリスチャンなら、
あなたは立派な仏教徒でもあるのです。
そしてこの逆も同様です(2)。
タイにとってシスター・アナベルとの出会いは、彼女を仏教徒に育て上げることではなく、一人のキリスト教徒としてその根をより深く生きさせるためのものでした。西洋でのリトリートでは、バイブルのことばに光を当て、イエスのことばを深く生き、体験させる方法としてマインドフルネスが教えられました。日々の行動や感情をマインドフルネスの目で観ることによって、未知の自分に出会い、自他への深い気づきと幸福につながるのです。
マインドフルネスは仏教の専売特許ではなく、いわゆる「宗教」でもなく、本当の自分に出会うための方法論、生きる知恵(The art of Living)なのです。マインドフルネスは誰でも実践できる行法(アート=技)で、誰もが今ここの瞬間に戻って幸せへの道を拓くことができるブッダの教え(正念・八聖道の7番目)です。タイはこのマインドフルネス(念)を仏道修行の筆頭にあげ、今や世界中でマインドフルネスの生みの親と仰がれています。マインドフルネスは、野に咲く一輪の花や銀河の星々の輝きに畏敬の念を抱き、存在の不思議、いのちの輝きに目覚めさせる力をもっています。
ティク・ナット・ハンのマインドフルネスの教えは「あなたの目の前にいるひと、モノ、月や動物や植物などの森羅万象に深く触れること」でした。「観・物」、「接・現」の教えです。今ここにあるこの存在(モノ)を深く見つめるとき、そのモノの中にそれを超えた神・涅槃・愛への道があるともいえるでしょう。
タイによれば、ものには2つの次元があり、1つは自分と他の生き物や鉱物との関係の次元(水平的関係)、もう1つは神に触れる次元(垂直的関係)です。この2つの次元が交わるところに、実存(存在)の瞬間があるのです。水平の次元に触れられなければ、垂直次元に触れることはできません。人や動物や植物に深く触れなければ、神を愛せるかどうかは疑問です。周りの世界とのつながりに気づいて、それに触れる(ティップ・ヒエン=接現)ことができれば、これらのモノとのつながりを通してやがては神に触れることができるのです。水平次元と垂直次元のあいだには「インタービーイング(相即)」という関係があるからです(3)。
今ここに存在するものを味わい楽しむためには、自分という我が家に戻って、そこに広がる無限の空間に自己を解き放つことです。マインドフルネスの練修がそれを可能にしてくれるのです。
シスター・アナベルがアメリカのグリーンマウンテンダルマセンターの僧院長として赴任するとき、タイから 'Representing The Buddha'(ブッダのお手本となる、ブッダをその身で体現する)という墨書を送られました(4)。タイはいつもプラムヴィレッジの代表として、自らブッダを生きてこられました。タイが生涯、手本とされてきたブッダへの道が、こうして彼女に託されたのです。
本書を「もうひとつの伝記」と呼びたい。この自叙伝はシスター・アナベルの生涯の記録であるばかりでなく、師や仲間たちと歩んだプラムヴィレッジという仏教共同体の40年の学びと成長の記録です。本書は今世紀の偉大な禅僧ティク・ナット・ハンの生きた記録でもあるのです。そして、プラムヴィレッジ(プラム村)は、アナベル・レイティというひとりの西洋人の女性の霊性を育てた揺籃であり、共同体としての家族が生きる場であり、戻っていくホーム(我が家)でもありました。
彼女が長い霊的修行の果てに着地した人生の道は、キリスト教の種を深く育てながら「ブッダを生きる道(Representing the Buddha)」でした。それは戦争の世紀、科学技術が高度な発展を遂げてきた20-21世紀を、ブッダが説いた念(戒)(5)(スムルティ(シーラ)、マインドフルネス)、定(サマーディ、コンセントレーション)、慧(プラジュニャー、インサイト)の三学とともに生きる道でした。大乗仏教が目指した「すべての人々の癒しと変容と幸福への道」を、シスター・アナベルは現在も歩み続けています。キリスト教も仏教も相互に異なりながら、同じ大海に流れ込む二つの大河です。この自叙伝は、仏教という大河を漕ぎ進みながら、キリスト教の美しい種と霊性を自らの支柱として生きてきた英国人尼僧の霊的旅路と覚醒の物語といえるでしょう。
注
(1) Thich Nhat Hanh, Going Home-Jesus and Buddha as Brothers (1999) (邦訳『イエスとブッダ――いのちに帰る』池田久代訳、春秋社、2016年).
(2) Thich Nhat Hanh, Living Buddha living Christ (1995/ 2007)(『生けるブッダ、生けるキリスト』池田久代訳、春秋社, 1996/ 2017).
(3) 上掲書『イエスとブッダ――いのちに帰る』p.6.
(4) Sister Annabel Laity, Mindfulness: Walking with Jesus and Buddha (2021) p.147.
(5)スムルティ=思い出すこと、念。シーラ=戒。プラムヴィレッジの伝統では、一般的な「戒定慧」の三学を、「念定慧」と解釈する。つまり修行の第一歩の「戒」を「念、マインドフルネス」と解して、八聖道の中の「念=マインドフルネス」を修行の中心におく。プラムヴィレッジが提唱する「五戒(5つの マインドフルネス・トレーニング)」や「14戒」などの戒(シーラ)を守ることが、仏教に根差した倫理的生活の大前提で、この戒を守り育てることが重要であるが、その戒を守り育てる方法論がマインドフルネス(スムルティ=念)なのである。そしてマインドフルネスとは、心を自分に戻して、今ここの自分に戻る練修、あるいは「いま、ここの自分に気づくエネルギー」と説明されている。