岸田國士戯曲賞を受賞した夜 池田亮さん
記事:白水社
記事:白水社
振り返ってみると、『ハートランド』は自分の生活と家族を人質として差し出す作品になったのではないかと思います。今までおもに身の回りの実体験を基に作品をつくってきた自分にとって、この作品で岸田賞を受賞したことは、自分が偽善者であるという意識から逃れられなくなることでもありました。権威ある評価をもらえたのも、いわゆる「不幸」な他者の人生や生命を材料として演劇にしてきた結果であるという事実に思い至らざるをえないからです。今作は「フィクションです」と謳ってはいましたが、結局、最も基にしたのは自分の体験です。そうしたこともあって、現実から物語を生む行為について、物語の続きは現実にしかないことを描こうと思ったのです。チラシの赤い糸は、それを表わしています。
『ハートランド』では子どもを探す父を描きましたが、そんな自分は二児の父になりました。子どもの人生が身近になり、戯曲を書いた自分はこの先どうなるのか、読み返すとそんなことを思います。
岸田國士戯曲賞選考会の日のことです。その日は生後間もない第二子の退院日と重なりました。初めて家族四人で寝床を共にする日でした。初めてのことに戸惑いと興奮があったのか、普段寝る時間を過ぎても一向に寝つけずでした。第一子が寝静まったら第二子が泣き出して起きて、第二子が寝静まったら第一子が……と無限ループ。抱っこしても読み聞かせをしても、高確率で泣き止む「POISON ~言いたい事も言えないこんな世の中は~」を流しても寝てもらえずでした。退院後のパートナーも当然疲労困憊で、選考結果より今をどう潜り抜ければいいか悩んでいました。退院日と選考会日が重なってしまった偶然もあるけど、いくら結果が出る日だからといって子どもの寝かしつけよりスマホチェックを優先するのは家族の将来的に良くない気がして、選考結果の連絡は自分のマネージャーへ行くよう事前にお願いしました。戯曲賞については一旦考えないことにしたのです。というか、前日の仕事でほぼ徹夜をしてしまい、頭が眠気と子どもたちの泣き声で一杯になり、思考停止状態になり、時が過ぎるのをただただ祈っていました。
ようやく、子どもたちが落ち着いて眠った後でした。寝室から離れてマネージャーからの結果報告を電話で受けました。
「通ったよー!」
電話の奥からありがたい拍手の音も聞こえました。電話からの歓喜は自分に伝わり、部屋へと浸透していきます。その空気を感じ取ったのか、子どもたちが急に目を覚ましました。さっきまでしっかり寝ていたはずで、大きな声で電話してないはずなのに、完全に起きていて、自分含め全員興奮していました。まったく眠れなくなってしまいました。SNS上でも白水社から受賞者発表があり、ありがたいメッセージがガバッと届きはじめ、あれほど今日はなるべくスマホを見ないようにしようとしていたのに完全に目を放せなくなっていました。一瞬で、賞というものに踊らされていました。さっきまで「子どもが寝ないときは、どうすれば?」と悩んでいた脳が、「受賞したら、どうすれば?」という脳に切り替わっていました。
すぐさまお祝い連絡に返事をしたほうがいいのか、こういうときはお世話になった方々へ即連絡すべきなのかどうなのか悩んだところ、
「ハートランド、通ったんだ!」
さまざまな意味が篭ったパートナーの声を聞いた0時過ぎ、とりあえず、自団体の「ゆうめい」の主宰、丙次(元・田中祐希)にだけ電話して寝ることにしました。
嬉しがってはいましたが、
「えー、ハートランドが通った!?」
丙次の返事にもいろいろな意味が篭っていました。この戯曲にずっと「?」だったので。
正直な話をすると、『ハートランド』上演時の評価は想像より良くありませんでした。「(マイナスな意味で)分からなかった」「それっぽい作品にしたかっただけ」という感想をいただきました。自分のなかでは「演劇にしかできないものを思いつけたのでは!」と書き上げたとき感じてしまっていただけに、あれは過信で自惚だったと反省しました。でも『ハートランド』は、実際の出来事を基に物語を描こうとする人々を描く話であり、それはつまり、この作品を上演した自分の話でもあるわけで、良い作品にならないべきでもあったと、一時は開き直ることも。しかし、とにかく作品の評価のせいで集客が芳しくなく、もうこういった作品はお金に困ってしまうし、生活もあるしと、パートナーでメンバーの一員である「りょこ」とも「ゆうめい」内で話し合った直後の受賞だったのです。
『ハートランド』は、今まで自分や家族や知人をモチーフに描いてきたことに対する自己批判的な作品を目指しました。いくら演劇内で現実を描こうとしても、それは結局、現実の搾取じゃないのか。実体験を基に創作していたときに感じた違和感を、言葉にしていきました。──「こうはなりたくない」と心のどこかで思っている人を登場させて、入場料をとって見せ物として描いているだけなのではないか。物語にして終わらせるだけの無責任なのではないか。現実での話題を取り入れるのは、現実のためではなく、こんな表現ができるという優位的な自分を観てもらいたいからなのではないか。生まれながらにして恵まれた環境にいながら、恵まれない環境にいると感じている人々を安全な場所からそれっぽく描いて、いい気になっているだけではないか。──絶え間なく、考え続けていました。
そう考えていくうち、反論というか言い訳を考え始めました。「いや、そういう自分も実はこうでしたけど?」とか、「その視点で見たら確かに恵まれてないけど、この視点で見たら恵まれてない?」とか、「こっちもこっちでこんなリスクありますけど?」とか、「この上演によってこんなふうに現状が変わる可能性ありませんか?」みたいに自問自答し続けた結果、自分の体験や過去から多くを引っ張ってきて描きました。劇中に登場する話題やオブジェクトは、自分が今まで誰にも明かしてこなかったことや隠していたことがモチーフになっています。[中略]
劇中に登場するメタバースや、AR、VR、NFTといったモチーフは、自分がそういった動画配信系の仕事をしていた体験から引っ張ってきました。直接会ったこともないし顔も知らないのに、リモートの音声だけで一年間以上会議してきた人のことや、ディレクターとして配信者の人と話し合ってきたことが、それらのモチーフを登場させるきっかけになりました。そして、自分が学生だったとき、学校でのいじめをネットの匿名掲示板に相談したところ、一番最初の返信は変な鳥が「バーカ!」と叫んでいるアスキーアートで、それを見て、悲しくも、なぜか面白く感じた体験がなければ、ここまでネットに興味が湧くことはありませんでした。あのときの名無しさんに、あなたがきっかけですとも言いたいです。
今、こうなったから良かったと思えていることが沢山あります。こうならなかったとしたら後悔しかなかったと思います。こうなれたのは運が良かったのか、それとも後悔しかないような出来事を経て、それをどうにかしようとしたからこうなれたのか、それとも、本当はどうにもなっていないし、そんな出来事は関係ないのかもしれないし……。まだ腑に落ちていませんが、今回の受賞を機に、気を遣って好きでもないことを好きだといってしまう自分から離れていこうと思えました。
【池田亮『ハートランド/養生』所収「あとがきにかえて」より】
【第68回岸田國士戯曲賞授賞式配信映像】
*受賞後初の新作書き下ろし作品『球体の球体』は、2024年9月にシアタートラムにて上演。