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宗教と非宗教と宗教的なもの 戦前は神社も宗教ではなかった 『近代日本宗教史』の刊行つづく(下)

記事:春秋社

岡田虎二郎(『岡田虎二郎先生語録』国立国会図書館デジタルコレクションより)
岡田虎二郎(『岡田虎二郎先生語録』国立国会図書館デジタルコレクションより)

「宗教的なもの」としての精神療法

 岡田虎二郎(1872~1920)という人物をご存じだろうか。明治末から大正期にかけて日本社会で一世を風靡した岡田式静坐法の創始者である。この心身技法は、岡田が定めた呼吸法と坐法によって静坐することで、病気の治療、健康増進から人格陶冶、ある種の宗教体験までを得ることができるとされた心身修養法である(栗田英彦「真宗僧侶と岡田式静坐法」『近代仏教』21号、2014年)。

 岡田式静坐法は「宗教」ではない。いわゆる民間療法だが、当時、静坐は禅の境地に似ているとの指摘もされたという。戦前の日本ではこうした宗教と医療、宗教と科学、宗教と呪術の間にあるような治療法が数多く存在し、大正時代には「精神療法」や「霊術」と呼ばれ流行した。その詳細は、栗田英彦・塚田穂高・吉永進一編『近現代日本の民間精神療法』(国書刊行会、2019年)に詳しく、同書で岡田のことも紹介されている。

 このように「宗教」ではないが、「宗教」を源泉としたり、何らかの宗教性や霊性を帯びたり、表象しているものを「宗教的なもの」と名づけるとすれば、まさに岡田式静坐法は「宗教的なもの」と捉えることができるであろう。

 こうした「宗教的なもの」が日本社会に広く見られるようになったのが、大正時代である。筆者が総論を担当した『近代日本宗教史第3巻 教養と生命――大正期』(春秋社)では、「宗教的なもの」として、精神療法以外にも教養主義、生命主義、宗教的共同体(西田天香の一燈園と武者小路実篤の新しき村)が取り上げられている。大正期の宗教史を語るには伝統教団のような制度宗教ばかりでなく、こうした「宗教的なもの」に注目し、民俗信仰や「類似宗教」(新宗教、民衆宗教)、「神社非宗教論」のような「非宗教」にも目を向ける必要がある。大正期の宗教史は、「宗教」「非宗教」「宗教的なもの」の複合体から構成されているのである

「宗教」をめぐる線引き

 「宗教」という言葉は前近代から存在したが、さまざまな宗教伝統を指し、それらを包括するという今日的な意味での「宗教」概念は、西洋のreligionの訳語として、明治10年代以降に用いられるようになった(鈴木範久『明治宗教思潮の研究』東京大学出版会、1979年)。religion概念の中核にはキリスト教(とくにプロテスタンティズム)の影響があり、個人の信仰を基調として、儀礼的要素(非言語的な慣習行為=プラクティス)を排除した、ビリーフ(概念化された信念体系)重視の特徴があった(磯前順一『近代日本の宗教言説とその系譜』岩波書店、2003年)。

 こうした「宗教」概念の普及と政府の開化政策や宗教政策によって、戦前の日本では、宗教と非宗教の線引きが行われた。たとえば、明治政府の開化政策の下、祈祷や呪術などのプラクティス中心の民間信仰は「迷信」として「非宗教」と認定された。また、19世紀前期から中期に開教し、幕末・明治維新期に発展した黒住教や天理教などの新宗教(民衆宗教)は「淫祠邪教」と見なされ、戦前は「類似宗教」や「新興宗教」と呼ばれた。

 さらには、戦前の日本では神社もまた「宗教」ではなく、「非宗教」だった。明治政府は、明治5年(1871)の太政官布告によって、「神社は国家の祭祀」と定め、神社の国家機関化を図り、いわゆる国家神道を形成していく。

 こうした宗教と非宗教の線引きを踏まえ、近代日本(とくに戦前の日本)の宗教構造を3つの次元に区分して、そのヒエラルキーを以下のように示したのが、宗教社会学者の西山茂である(「近代仏教研究の宗教社会学的課題」『近代仏教』第5号、1998年)。

 非宗教Cを底辺とし、非宗教Aを頂とするわけだが、西山によれば、戦前の日本の為政者の定義では、②のみが「宗教」だった。①と③は「非宗教」だった。ただし、筆者のいう「宗教的なもの」は、この中に含まれておらず、③と併存する位置づけになるであろう。昭和3年(1928)発行の『霊術と霊術家』(二松堂)には、当時の治療家は3万人と記されている(前掲『近現代日本の民間精神療法』)。いわば、上記の宗教構造の外側に広大な「宗教的なもの」の領野が拡がっていたのである。

 『近代日本宗教史 第3巻』で「大正の教養主義と生命主義」を論じた碧海寿広によれば、「大正期、日本宗教の主役は、宗教者から非宗教者へと移り変わる」。伝統教団も大きなプレゼンス(存在感)を示したが、たしかに、和辻哲郎、倉田百三、西田幾多郎といった教養主義を代表する非宗教者の学者や小説家による宗教に関する作品がベストセラーになったことは、日本社会で「宗教的なもの」が広く受容されたことを意味する。

 以上のような「宗教的なもの」の普及というのは、じつは大正期に限定された現象ではなく、現代日本にも見られる。たとえば、(日本に限定されないが)ヨガやマインドフルネス瞑想という心身技法の流行や、五木寛之『親鸞』全6巻(講談社、2010~14年)、『池上彰と考える、仏教って何ですか?』(飛鳥新社、2012年)のベストセラー化がそうである。ただし、現代日本では為政者が「宗教」と「非宗教」の線引きをすることは基本的にはない。また、現在、「宗教」概念のキリスト教的な偏りに疑問が呈されている。

 そう考えると、そもそも「宗教」とは何か、という難問が浮かびあがる。その問いに手短に答えるのは難しいが、少なくともそのヒントが『近代日本宗教史』に散りばめられている。近代日本の社会や人々の生活にとって「宗教」とは何なのか。その答えを本シリーズから読み取ってほしいと思う。

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