1. じんぶん堂TOP
  2. 歴史・社会
  3. ポジショナリティの相違を超えた共通の了解や協働はいかに可能なのか?

ポジショナリティの相違を超えた共通の了解や協働はいかに可能なのか?

記事:明石書店

『日本社会とポジショナリティ』(池田緑編著、明石書店)
『日本社会とポジショナリティ』(池田緑編著、明石書店)

個人の経験を集団的な利害の問題としてとらえ直す

 本書は、近年注目されているポジショナリティという視点から、日本と沖縄の関係、性差やジェンダー、多文化社会化など、現代日本社会の様々な問題を考えようと意図したものです。ポジショナリティとは、集団に属することで個人に存在している政治的な位置性、集団に属することで個人に存在している利害、などを分析する概念です。

 人びとは、なんらかの集団のなかに生まれて育ちます。自分で所属先を選べるような集団との関係もあれば、性別、年齢、人種、民族・エスニシティなど事前登録されたかのように所属を選べない集団もあります。そしてそういった集団の間には、しばしば権力関係や不平等・格差などが存在していて、私たちは、いわば生まれながらに苛烈な権力関係の当事者として存在せざるをえないのです。

 そのような権力や不平等・格差は、当然ながらそれぞれの集団に属する人びとにおいて、個人的な経験として体験されます。そのような経験が個人に与える影響については、アイデンティティ研究などで多くの知見が蓄積され、また複数の権力軸における個人の経験を理解する概念としてインターセクショナリティなどが注目されています。ポジショナリティは、これらの個人の経験を、集団との結びつきを前提に、集団的な利害の問題としてとらえ直す概念です。

 集団に属することで、利益や被害があり、それは個人的に経験されます。たとえば性別による所得格差、米軍基地集中に苦しむ沖縄人とそれを免れている日本人、などにおいては、そこに明確な利害の差があり、それぞれの利益や被害は個人の身に降りかかっています。また経済的資源の配分や生活環境の違いだけが利害ではありません。成功不安に苛まれる女性たち、自分は何者なのかといった葛藤を抱えるマイノリティの人びと。これらの不安や葛藤は、男性たちやマジョリティには、同じ水準では存在しません。マジョリティの人びとは、こういった不安や葛藤を免れていて、思い悩む必要がありません。それは特権であり、不均等な関係における利益といえます。ポジショナリティは、これらの不均等な集団間の個人における利害をも描き出す概念です。

個人的責任と集団的責任とを切り分ける

 権力や抑圧関係は、個人的な抑圧行為と集団的な利害関係が織り合わさって存在しています。ポジショナリティは、この両者を分けて理解する際に非常に有効です。なんらかの具体的な抑圧行為や発言を行った人が、その行為や発言に対して責任を追及されるのは当然でしょうが、そのような具体的な抑圧行為や発言を行っていない人にも、抑圧が継続している状況から集団的な利益をえていることや、状況を放置してしまっていることへの責任は存在します。これはポジショナリティにかかわる責任といえます。そして、個人的行為に対する責任と、ポジショナリティにかかわる責任とは、質的に異なるものですが、被抑圧者を追い詰める効果は、どちらも大きいでしょう。ポジショナリティは、個人的な行為に起因する問題や責任と、集団的利害に起因する問題や責任を区分する概念として有効です。この2つの問題と責任を混同しないことで、状況の変革は、より進みやすくなるでしょう。

 本書の帯には「「女性って大変だね。頑張ってください、応援しています」――このような発言が相手を傷つけるのをなぜ理解できないのか?」との紹介文があります。その理由のひとつに、個人的な問題や責任と、集団的利害に起因する問題や責任とを区分していない可能性があります。個人的に差別や抑圧行為を行った覚えがないので、平気で「頑張ってください、応援しています」といえてしまうのです。自らには個人的な責任はないので、抑圧や不平等に対しても責任がないと思ってしまえるのです。責任がない、すなわち当事者ではないとの意識から「頑張ってください、応援しています」といった発言ができてしまうのです。

 しかしこういう発言をしたとき、その男性は、自分の集団的利害については棚にあげてしまっています。その当事者意識の欠落と無責任さは女性たちを十分に傷つけうるものでしょう。これはポジショナリティへの認識の欠落がもたらす無知であり、怠慢さです。そしてそういった無知や怠慢さが許される存在であることにも無自覚で、さらに女性たちを傷つけてしまう可能性があるのです。

 被抑圧者と抑圧や不平等を容認している人との間だけではなく、抑圧や不平等を解消しようとしている人との間においてすら、しばしば断絶や齟齬が起こります。抑圧や不平等を解消しようと考えている人は、それらから解放されたいと望む被抑圧者と理想や目標を共有していると言いえるでしょう。にもかかわらず、そのような人びとの間でしばしばみられる深刻な対立。これは、ポジショナリティを考慮に入れないことによって、集団的利害の当事者から一方的に自らを抹消して、あたかも善意の第三者かのように振る舞える抑圧側のポジショナリティにある人びとの態度が生みだす深刻な齟齬といえます。

 それが表面化し、対立が顕になったときにポジショナリティを理解していないと、被抑圧者はなぜ傷つき、なにに対して怒っていて、自分のなにが問題とされているのか、まったく理解できない事態に陥ってしまいます。近年注目されているマイクロアグレッションの事例など、すなわち「悪気はないのに相手を傷つけ、なぜ相手が傷ついているのかを理解できない」といった現象も、ポジショナリティを理解することで、避けられる可能性があります。

変化する/変化しうるポジショナリティ

 本書ではこういった事柄や視点について、沖縄と日本の関係、とくに沖縄に集中する米軍基地を沖縄以外の日本に移すことを要求する「県外移設論」と、それに対する日本側の応答である「基地引き取り論」を中心とした問題、多文化化を推進する教育の現場に現れるポジショナリティの問題、性犯罪被害者への攻撃や子育て世代の女性に対する批判、DV被害者支援における問題、「人材」といった用語に典型的にみられるポジショナリティの忘却、インターセクショナリティ論やマイクロアグレッションとポジショナリティの関係、などの現代日本の様々な論点から、ポジショナリティという視点を通じてみえてくることを分析しています。

 また、それらの理論的な検討や定性的分析だけではなく、アンケート・データによる定量的な分析からもポジショナリティの実像を明らかにする試みが行われています。

 これらの考察を通じて、すべての章で述べられているのは、出自や属する集団によって人びとの関係性が決定しているわけではないということです。私たちは、集団への帰属――離脱が困難に思える場合も含めて――から自由ではないかもしれませんが、集団間の関係性を変えることによって、人びとの関係性も変わりうるということです。

 社会において、ある人がどのような位置(ポジション)にあるのかは、現在の問題で、すでに配置されてしまっている事柄です。その位置については、客観的に認識することが必要です。ポジショナリティは集団的利害という“事実”を基盤とした視点のため、このような現状分析において大きな力を発揮します。

 しかしそれは、未来永劫、私たちが現在のポジショナリティに拘束されることを意味しません。人びとのポジショナリティは属する集団との社会的結合のありようと、集団間の権力関係(権力的な利害関係)によって規定されているに過ぎないのですから、集団間の抑圧関係や不平等が改善・解消されれば、それぞれに属する人びとのポジショナリティもまた変わりうるのです。

 現時点でのポジショナリティはすでに決定されており、それを変えることはできません。できるのは、現実のポジショナリティのありようを事実として認めるか、あるいは否認すること、すなわちポジショナリティにかんする問題に目を瞑って、みて見ぬふりをすることだけです。ここで重要な点は、未来のポジショナリティは、現在の私たちの選択と行為によって決まるということです。そのためには、現在のポジショナリティをしっかりと理解しなければ、変えようもありません。また異なるポジショナリティにある人びとが、真に協働して抑圧や不平等を解消可能となるためは、相互のポジショナリティの相違を共通認識として共有したうえで、それを変えるという意志も共有することが出発点となるでしょう。

 現代社会の様々な権力・抑圧・不平等を解消したいと考えている、抑圧側と被抑圧側の双方のポジショナリティにある人びとに、そして抑圧側/被抑圧側という違いを超えて協働する条件を模索している人びとに、社会的なポジションを超えて人間同士としてのコミュニケーションと対話を希求している人びとに、ぜひ読んでいただきたいと思います。そしてポジショナリティの問題を、一緒に考えていただければと思います。

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ