太陽王と半裸の青い男 17世紀と21世紀の祝祭にて
記事:春秋社
記事:春秋社
古来より「豪華絢爛な催し」というものは、権力者の力を示し、そして秩序を形成する上で不可欠であった。「ある秩序は、その秩序の成員全員がそこにいることに喜びを感じている時に確実なものとなる。そうなれば、だれもその秩序を壊そうとしない」(*1)。ゆえに、為政者たちはこぞって見るものの心を掴む演出を模索した。
フランスの絶対王政を築いたルイ14世のもと、1653年に開催された〈夜のバレエ〉。夕方6時からはじまるこの催しは3時間ずつ、4つの部分から成る。それぞれのセクションでは「時」や「遊戯」の概念を模した格好をした人間が登場し、踊る(ルイ14世本人も踊った)。そして最後のセクション(深夜3時から朝6時にかけて)の、ちょうど陽が射す頃合いにあわせて、太陽神アポロンに扮したルイ14世が現れる。絶対的な権力を持った「太陽王」君臨の瞬間である。鑑賞する誰もがその光景に魅了されたにちがいない。
そして2024年、この〈夜のバレエ〉と非常に構造が似通った祝祭がヴェルサイユから離れた都市で執り行われた。パリオリンピックである。午後7時30分より開始した開会式では、まるで〈夜のバレエ〉さながら、「ポリティカル・コレクトネス」や「SDGs」を象徴するような一幕やキャラクターが次々と登場する。「半裸の青い男」として知れ渡ったフィリップ・カトリーヌは、ギリシャ神話の酒の神ディオニュソスを演じた(*2)。
そして開会式の終盤、セーヌ川を銀色の馬が駆け抜ける。よく見るとその馬は機械仕掛けで動いており、おそらくスクリューのような装置が水面下で作動しているのだろう。「馬が水の上を滑走する」というのは自然界ではありえないが、科学の力をもってそれは実現可能になる。それを見ると、どんなに「タネも仕掛けもある」と斜に構えている人であっても、どこか心を掴まれてしまう。自然の摂理に反した仕掛けに心躍るというのは17世紀も同様で、オペラなどではさまざまな舞台装置が施された。そもそもヴェルサイユという土地自体も、荒れ果てた自然が「王の力によって」整然としたシンメトリックな姿となることを表している(*3)。
そしてクライマックス。エッフェル塔に徐々にカメラが近づいてゆき、そして輝かしい歌手が高らかに「愛の讃歌」を歌い上げるシーンが映し出される。それはさながら夜明けに登場したルイ14世といったところだろうか、世界中の多くの人間がその光景に心を奪われた。「ディオニュソスを演じる」フランシス・カトリーヌから、「アポロンを思わせる」セリーヌ・ディオンへ――なるほど、まるである哲学者が若き頃に考えたように、われわれはこの一連の演出にカタルシスを覚えるのかもしれない(*4)。
このように17世紀の祝祭も、21世紀の開会式も、ともに人々を感動させることに強く執着していた。「1924年のちょうど100年後」として開催されたパリオリンピックだが、もっともその精神は17世紀の祝祭から変わってはいないようだ。
ルイ14世はバレエ〈素晴らしき恋人たち〉を最後に、本人が踊るのをやめる。『ヴェルサイユの祝祭』の著者小穴晶子氏によれば「バレエそのものはオペラに吸収されてオペラの中で素人の貴族によってではなく専門のダンサーによって踊られるようになった。こうなることによってバレエは完全に見られるものになった。そして王は、この可視性を可能にする不可視の光源になった」(*5)という。ルイ14世は自らが踊ることをやめ、そして「オペラ・アカデミー」を設立し、オペラ事業を拡大していく。つまり王は光をあてられる側から「あてる側」にまわることを選択した。
実際に目にすることは叶わないが、光を発する源としての為政者、国家、あるいは産業がたしかに存在する――これは21世紀の祭典にも共通する要素である。実際に目に映るのは「舞台上のパフォーマー」や「照明」であり、そこにプロデューサーや演出家などは映らない。だが「なぜこのような燦然と輝く演出が可能になるか」と思うとき、われわれはむしろ目にしていないものの存在のほうを強く感じているのだろう。
ちなみにヴェルサイユ宮の「きらめき」といえば多くの人がまず思い浮かべる「鏡の間」は、当時広く使用されていたヴェネツィア産の鏡ではなく、フランス産の鏡をふんだんに使っていた(*6)。さきに紹介した水面を滑走する機械馬についても、それを作り出した工業チームのインタビューが掲載されている(*7)。いずれも、フランスの「産業」の成功を表現している。
ここまで、17世紀と21世紀の祝祭の共通項を延々と述べてきた。しかし最後に、すこし視点を変えて、「金の光」の話をしてみよう。ひとつ前の夏季オリンピックの開催式のいたるところで、「金の光が隠れもせずチカチカしていた」のが記憶に新しい。パリオリンピックの開会式でも、報酬をめぐって多くの演者たちがストライキを断行した。やはり大きな催しには「金」の問題がつきものだ。ルイ14世お気に入りの作家モリエールの手によるコメディ・バレエにも、頻繁に「芸術家と金」の話が盛り込まれている。
件の「半裸の青い男」は、セリーヌ・ディオンやレディー・ガガらに支払われたギャランティが「200万」ユーロだったのに対して、自分は「200」ユーロだったと嘆く(*8)。この話を受けて、わたしはモリエールの喜劇「ドン・ジュアン」の登場人物スガナレルを思い出さずにはいられない。愛も神も善も信じない主人公ドン・ジュアンが地獄に連れていかれてしまったとき、召使のスガナレルだけが悲しんでいる。観客はそれを見て、彼が主人の死を嘆いていると思い同情する。しかしその直後、スガナレルはこう叫ぶ。
「おれの給料! おれの給料!」(*9)
――モリエールもまさか、約400年後におなじ台詞が、演劇ではなく現実の世界で叫ばれているとは思うまい。
21世紀に通じる17世紀の祝祭。『ヴェルサイユの祝祭』の最後は以下の1節で閉じられている。「古楽の理念に基づいて制作された、〈町人貴族〉と〈カドミュスとエルミオーヌ〉のDVDの音楽総監督であるヴァンサン・デュメストルの言葉を再度引用して筆を置くことにしたい。『古楽の再解釈は一つの現代芸術として新たな創造へとつながるものである』」(*10)。何世紀ものまえの祝祭をあらためて見返すことは、現代の祝祭を見る者の解像度を高くすることにもつながるのだ。
(文・春秋社編集部)
*1 小穴晶子『ヴェルサイユの祝祭 太陽王のバレエとオペラ』(春秋社、2024年)、ivページ。
*2 じつはルイ14世も、かつて〈バッキュスの祭りのバレエ〉を踊っている。「ディオニソス」も「バッキュス」も、前者がギリシャ語、後者がフランス語における呼称であるだけで、同じ神である。
*3 パリオリンピックの馬術競技のスタート地点も、ちょうどヴェルサイユの庭園の絶景を見渡せるポイントとなっていた。
*4 参考:フリードリヒ・ニーチェ『ニーチェ全集2 悲劇の誕生』(塩屋竹男訳、ちくま学芸文庫、1993年)
*5 小穴 前掲書、72 – 73ページ。王が踊った最後のバレエ〈素晴らしき恋人たち〉の最終場面のアポロンの台詞を論拠としている。
*6 中島智章『世界一の豪華建築バロック』(エクスナレッジ、2017年)、116ページ。
*7 機械馬のデザイン・製作に携わった企業「Sanofi」のYoutubeチャンネルに詳しい動画がアップロードされている
*8 Thomas Pisselet ”Philippe Katerine, le cachet dérisoire qu’il a touché pour la cérémonie d’ouverture”, (sport.fr, 2024.7.30)
*9 小穴 前掲書、79 – 81ページ。
*10 小穴 前掲書、228 – 229ページ。