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ボリショイ・バレエはいかにしてロシアの象徴となったか 『ボリショイ秘史』

記事:白水社

世界中のバレエ・ファンを魅了する、華麗なるボリショイ・バレエ。サイモン・モリソン著『ボリショイ秘史 帝政期から現代までのロシア・バレエ』(白水社刊)は、その舞台裏で紡がれてきた、劇場、国家、そして人々をめぐる物語=歴史を詳らかにする。
世界中のバレエ・ファンを魅了する、華麗なるボリショイ・バレエ。サイモン・モリソン著『ボリショイ秘史 帝政期から現代までのロシア・バレエ』(白水社刊)は、その舞台裏で紡がれてきた、劇場、国家、そして人々をめぐる物語=歴史を詳らかにする。

サイモン・モリソン『ボリショイ秘史 帝政期から現代までのロシア・バレエ』(白水社)口絵より
サイモン・モリソン『ボリショイ秘史 帝政期から現代までのロシア・バレエ』(白水社)口絵より

 2013年1月17日夜、ボリショイ劇場バレエ団の芸術監督セルゲイ・フィーリン〔1970─〕は、モスクワ中央環状道路の近くにある自分のアパートに帰ってきた。彼は黒のメルセデスを建物のそばに停め、湿っぽい雪が降るなかをゆっくりとメイン・エントランスに向かって歩いていった。家では2人の息子はもう寝ているが、ダンサーで妻のマリヤはまだ起きていて、彼を待っているはずだ。だが、セキュリティ・コードを押して金属製の門を開けようとしたとき、ずんぐりした不審な男が背後から大股で近づいてきて、大声で怒鳴るように呼びかけた。フィーリンが振り返ると、フード を被ったその男は瓶を振り上げてフィーリンの顔に強酸性のバッテリー液を浴びせ、近くに待機していた車に飛び乗った。フィーリンは地面に倒れ、助けを求めて叫び、焼けるような痛みを抑えるために顔や眼を雪で覆った。

 この事件はロシアで最も名高い機関のひとつであるボリショイ劇場を大混乱に陥れた。この劇場は帝政時代の至宝であり、20世紀を通じてソビエト権力の紋章であり、そして21世紀に生まれ変わった国家を誇示するショーケースである。劇場の芸術家たちは程度の差こそあれ、そのキャリアが公私にわたり報われずに終わった人々でさえも、彼らが彩った舞台のおかげで自分の人生は恵まれていたと信じることができた。ボリショイのダンサーたちは関節の故障、筋肉痛、足を打撲してあざを作るなどの危険に耐えながら、ほぼ完璧なポーズと無類のバランスを見せた。草創期の劇場に奉仕した学校で、かつての孤児たちが天使へと育った。ボリショイはその後、19世紀古典バレエの傑作を育み、さらに時代が下ると、近年はダンサーたちの本物のスキルが、ソビエト・バレエの粗悪なイデオロギー作品を少なくとも部分的に和らげた。フィーリンへの襲撃は、芸術と芸術家は天上の存在であるというロマンティックな観念を崩壊させた。ボリショイの舞台における息を吞むほど詩的な身体運動[アスレティック]性にまつわる物語は、緞帳の向こう側の性と暴力という低俗なノンフィクションに取って代えられてしまった。だが、犯罪報道記者、政治・文化評論家、批評家、そしてバレエ・ブロガーたちはみな一様に、劇場ではこのような騒動がしばしば起きていたことを人々に思い出させた。今回の襲撃事件はひとつの恐ろしい突然変異というよりも、むしろボリショイの豊かで複雑な歴史の中になにがしかの先例がある。その歴史は定期的に発作のように起こる狂気によって中断され、そして煽動されもした、驚嘆すべき業績の一部なのである。

 ボリショイの歴史は国家の歴史と手に手を取って進行する。ロシアを動かすものがボリショイを動かす──少なくとも権力の座がサンクト・ペテルブルクからモスクワに移ったロシア革命以降はそうだった。帝都サンクト・ペテルブルクにおける皇帝[ツァーリ]の統治下では、マリインスキー劇場(キーロフ劇場の名でも知られる)が最高の権威をもっていて、モスクワとその地にある財政不安定なオペラ・バレエ劇場は地方のものと見なされていた。しかし視点を変えてみれば、それぞれの劇場、それぞれの街、それぞれの系統は、お互いにひとつの長い伝統の前景に現れてくるものだ。20世紀にはボリショイはロシア国内および国際舞台で、ロシア・バレエの伝統だけではなくソビエト国家の特使として最高の地位を任じられていた。

サイモン・モリソン『ボリショイ秘史 帝政期から現代までのロシア・バレエ』(白水社)口絵より
サイモン・モリソン『ボリショイ秘史 帝政期から現代までのロシア・バレエ』(白水社)口絵より

[中略]

 ロシアのニュース報道が一巡すると、一面記事はウクライナ東部の紛争に取って代わられた。老練なウーリンが劇場の舵取りをすることになったので、当面の危機は別として、あの恐ろしい事件はすぐに忘れ去られるだろうと思われた。だが、ボリショイを取り巻く昨今の暴力事件は18世紀後半にまで遡り、劇場の草創期における数々の出来事と響き合っている。人々の心を摑む──あるものは毒々しく、またあるものは心を搔き立てるような──数々の物語が、官僚的な厳重さでロシアのアーカイヴ、博物館、図書館の中に保管された何千もの文書によって語られている。現役および引退したダンサーたちの回想によって、そしてまたロシア・バレエの専門家たちの優れた学識によって。これらの記録は一風変わった読み物になる。ボリショイの舞台におけるバレエの想像力がどんなに幻想的だったとしても、事実は小説よりも奇なり、である。

(『ボリショイ秘史――帝政期から現代までのロシア・バレエ』序章より抜粋)


【著者サイモン・モリソンによる動画 Pushkin House Book Prize 2017: Simon Morrison on 'Bolshoi Confidential'(英語) 右下の歯車アイコンをクリックすると字幕翻訳できます。】

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