恋愛ばかりが重要なのですか? 『源氏物語』から仕事とプライヴェートの問題を考える
記事:春秋社
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『源氏物語』の「作者」である紫式部を主人公にした2024年の大河ドラマ『光る君へ』は、ドラマティックな展開で、予想以上に評判が良いようですが、やはり予想したように、恋愛中心の物語が展開しています。『源氏物語』やそれにまつわるあれこれには、やはり恋愛の物語というイメージが強いようです。そのためかよく、『源氏物語』が専門だというと、結婚も見合いで恋愛の話が好きでない母親には「何で『源氏物語』を研究しようと思ったのか分からない」「何がいいのか分からない」と言われます。説明するのが面倒なので、ああそうだろうな、と思いながら何も言わないのですが、それだとちょっともったいないな、という気もします。
私は前に書いた新書(『『源氏物語』女三の宮の〈内面〉』新典社新書、2017年)で、『源氏物語』の登場人物の一人である女三の宮を、アセクシュアル(他者に性的な欲望を抱かないセクシュアリティ)的な女性として捉えました。そういう登場人物もいますし、男女間での恋愛よりも女性同士の恋愛とは限らない関係を指向する登場人物もいますので、『源氏物語』は必ずしも恋愛だけの物語ではありません。そういう部分を知ってもらえたら、という思いから、私は前の新書を書きました。また、同書は、博士論文の一部を一般向けに書き改めたもので、大学院という、研究と社会生活をいったん切り離すことができる空間の中で考えたことを書いたものでした。大学院を出てからは、仕事のなかでいろいろと息苦しさを感じることが多く、セクシュアリティや恋愛傾向はただ個人の中にあるものとしてだけではなく、社会との関係で見ていかなければならないことを痛感しました。ただ自分が自分のことを理解し、受け入れていたら良いというものではありません。社会が異性愛を前提としているために、恋愛というものがよく分からない私には仕事とプライヴェートの区分が他の人と違ってしまったり、一生懸命気を遣っても「人の心が分からない」と言われたり、仕事に自信が持てなかったりします。
大学院を修了してすぐに就職した進学塾では、国語の授業を受け持って物語の読解を教えたのですが、そこでは人間には感情があって、その感情によって物語が動いていくというように人間中心主義的であったり、母親は子供に愛情を持つのが当然というように規範的であったりする読み取りに違和感がありました。私の勉強不足もあったのですが、ともかく教える内容が理解できず悩みました。それで塾や予備校で教えるのは無理だと思い、事務職を目指したのですが、博士持ちを誰も事務では雇ってくれません。
それでたまたま公募の出ていた、自分の研究とはちょっと違う分野の研究員に応募して採用されたのですが、その分野では研究がうまくいかず、自分の仕事が何なのか分からなくなってしまいました。社会のなかでの生きづらさや、恋愛や性愛を重視する社会への違和感を自分の研究の原動力としていたため、社会に対する批判意識がさほど前面に出て来ない分野ではうまくいかなかったのでしょう。そんな折、職場のイベントに参加してくれた男の子に付き合ってほしいと言われて、高等教育に関する部署でもあったため、恋愛に慣れていない大学院生と付き合うのも仕事のうちかも、と思って受け入れてしまいました。そもそも恋愛の分からない人間が、恋愛経験のほとんどない男性と付き合うのも無理のある話で、うまくいくはずもないのですが、私の中では付き合うことが仕事になってしまっていたため、そこでの研究員の仕事を辞めるまで別れられませんでした。
結局仕事も自分の感情も良く分からなくなり、姉の里帰り出産をきっかけに実家に帰省しました。私が大学院を修了した年に父が亡くなっており、保護活動を行っていた関係で犬猫がたくさんいたため、人手が足りなかったからです。五年程実家で過ごし、犬猫(とりわけ自分の子供だと思っていた、のすけちゃん)と戯れ、世話をし、介護するなかで、自分の感情や愛情を感じられるようになりました。一方で仕事のほうは、親戚が経営していた薬局で雇ってもらい、自分の専門や研究とは全く関係のない仕事に就くことができたことで、仕事とプライヴェートを切り分けることができました。
私にとって研究は自分の生きづらさや感性と強く結びついているもので(もちろんそれを客観的に説得できるように論文にするわけですが)、趣味で読んでいたはずの本でもいつの間にか研究対象になることもあるため、プライヴェートと切り離せないものでした。そのため研究を仕事(賃労働)にすることに対して、自分自身を売り払っているように感じてしまい、違和感がありました。同時に、研究は仕事(賃労働)との対比ではプライヴェートで、私的な利益か公益性があるものかという区分で言えば、公開されて公益性のあるものという意味でオフィシャルでした。
大学院の間、私は論文を書く技術やプレゼンテーションの技術を磨くとともに、自分の思考や感性は論文で昇華できるから、外見は自分の思いや何かをアピールするものではないと思って、社会に適応できるよう、普通の女性に見られるように、人当たり良く、きちんと周囲に馴染むように努力していました。でも私のように何かを専門的に修めてしまうと、社会の側はその専門とのわかりやすい繋がりがなければ雇ってくれません。外見と内面を分けて考え、内面は研究のためにとんがって、外見だけは人当たり良くするという戦略はむしろ逆効果だったのです(かといって今さら誰から見ても目立つような個性的なファッションを身にまとう勇気もお金もありません)。私は先行研究に疑問があり、アセクシュアルっぽく見える女三の宮について論じたくて『源氏物語』を対象に選んだのに、社会は『源氏物語』をロマンチックな恋愛物語だと思うような場所です。それでマッチするわけがありません。
そういうわけでこの本では、大学院を出て仕事をする中で苦しんだことを書いています。単に私が苦しいと訴えかけるだけの本ではなく、仕事ができなくて悩んだり、恋愛や性愛が分からなくて苦しんだりしている多くの人たちにとって、助けになるものであることを願っています。