「あなたのお話を聞かせてください――」見知らぬ森で本をつくっていく
記事:じんぶん堂企画室
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のんきにバトンを受け取り、いまさらヘンな汗をかいている。
とくだん専門分野もなく本をつくってきた。ひとの書いた原稿に無免許・無資格であーだこーだ感想なり修正なりを返す仕事に、よくゾッとしている。
この手がなにをしているか、いまだに分かっていない。苦しまぎれに近年編集したいくつかの本をみまわす。翻訳書、エッセイ、詩歌の本――雑食的に食いちらかした足あとがぼんやり浮かんでくる。
たぶん「人文書」に類する本は一冊もない。その判断すらおぼつかない。
以前、“文芸編集”と呼ばれる仕事を十年ほどやった。文学も、人間も、毛ほども分からぬまま、おもしろい作家、めずらしい体験に出くわした。あのまま歩いていけば崖から落ちたり、毒きのこを食べて笑い続けたりもできただろうが、ふと別の森を見たくなり、裸で飛び出した。
飛び出した先の森で、一体何をしているのだろう。
隙あらばエッセイ本に対談をもちこみ、対話構造をもつ海外作品を好んでいる。
〈ひとつの声〉に支配される状況を避けたいのか。
自分の手のひらを見ていても詮ないので、小野和子さん『あいたくて ききたくて 旅にでる』を焚き火に当たるように読み返した。いまにも消えゆく民話や人をたずね、山深い村々を歩いてゆかれた記録。御年九十歳の今年も、続篇『忘れられない日本人 民話を語る人たち』を刊行されている。主な編集人は清水チナツさんだ。
あんただちが、うんと真面目な顔で、おれの「ちんちんむかし」なんか、テープにとってや、あんまりいっしょうけんめいに聞くから、今度はおれのほうがたまげてや、それから、ついその気になって語り始めたのしゃ。
そうしたら、つぎつぎと思い出すもんだなや。
あんただちにだまされて、あれもこれも語っているうちに、おもしろいように話が出てきて、のべつに語ったのしゃね。
(小野和子『忘れられない日本人 民話を語る人たち』2024年 PUMPQUAKES)
寝しなに、家事手伝いの最中に、祖母や母から語り継がれた民話のともしびは、TVが普及する一九六〇~七〇年代ですでに消えかかっていた。そこへ、若かりし小野さんがとつぜん「民話を聞かせてください」と訪ねてくるのだから、皆がたまげただろう。しかし彼女の異様な熱意に気圧され、せがまれたひとびとはつぎつぎ物語を吐き出していく。ひとりの人間のからだに、百も二百も物語をためこめるものかと、読みながら呆気にとられる。
小野さんの二冊の本には、この世のものとは思えない「語り」をめぐる儚さと、山村の民話が放つ獰猛な生命力の、相反する気配がうごめいている。
命を消しかけた物語たちが、ひとつずつ息を吹き返していくさまに、ページをくりながら、やはり今回も呆然とする。
紹介したい民話は数あれど、このときふいに立ち止まらされたのは、小野さんがみずからの説明に戸惑う場面だった。
「ほんでぇ、あんた、なに商売の人っしゃ」
と聞かれた。こういうとき、「○○の商売です」と、はっきり答えられる商売を持っていたら、どんなにいいだろうと思う。
「商売はないんです」
そう答えると、それでは、どうしてこんなことをして歩いているのかと、その大義名分を語らなくてはならなくなる。わたしには身分を証明するこれという肩書きもなく、職に就いてもいない。三人の子持ちの主婦である。苦し紛れに、
「昔話が好きで聞きたいから、こうして歩いているんです」
と答えると、あきれ顔をされる。
「へえーっ。よっぽどの物好きだねぇ。よっぽど暇なんだねぇ」
(小野和子『あいたくて ききたくて 旅に出る』2019年 PUMPQUAKES)
「よっぽど暇なんだねぇ」とは、生きるものへの最高の賛辞だろう。
勤め人になって十二年、書き手や装丁家に依頼をしにいくと、大抵「編集の者です」とつまらぬ身分を名乗ってしまう。そうしなければ、なにもはじめられないとでも思っているのか、しかしずっとそのことが恥ずかしい。言ったが最後、たぬきが頭に葉っぱをのせている感覚がこころを去らない。
いい本をつくらせてください、読者を楽しませたい、社会に問いを投げたいのです――そのどの理由も真っ当で、誠実な色合いをまとうから、不埒な自分はときに借用したし、今後もうっかり口にするにちがいない。
でも、本当はどの説明もじぶんには不釣り合いなのだ。
「は? あんた怪しい人?」と喝破してもらえたら、正体を見破られた安堵で薄ら笑いすら浮かべるだろう。
強いなにかに突き動かされ民話を採集しはじめた小野さんのことばを、いまの自分に重ねるのは果てしなく不遜だが、「あなたの話が聞きたいから、こうして歩いてきたんです」――これだけが本当のことで、この欲望のまえでは、本の編集という仕事すらおずおず差し出す隠れ蓑でしかない。
小野さんの本は、読み手をたちまち河川にながれる一滴の水や、土中にひそむ小さな虫に変えてしまう。過酷で、愉快で、愛おしい、生のあらゆるをのみほさせ、人間社会になじもうとする“じぶん”という乗りものの挙動の可笑しさをも暴きたてる。
こういうひとが、本が、給水所のようにあらわれてくれるから、命からがら見知らぬ森を歩いてこられた気がする。
あなたのお話を聞かせてください――それだけを言って、あてどなくへどもど本をつくっていけたらと思う。
次のバトンを受け取ってくださったのは平凡社の岸本洋和さん。岸本さんは、入社早々に会社の先輩が「昔からの、信頼できる友人なの」と紹介してくれた、お兄さん的編集者だ。はじめてお目にかかったとき「あぁ……」と即座にこちらの心の結界をとくような後光を放っておられ(前世は仏さま)、作家や編集者が岸本さんのことを温かな信頼とともに語る場面になんども出会った。まもなく岸本さんはstandard booksシリーズを立ち上げ、科学者たちのふくよかな文章世界を味わわせてくれ、気づけばその背中が見えなくなるほど遠い存在になった。カラオケでオザケンを歌い上げてくれたのは、いつだったろうか――この機会に、いまや恥ずかしくて聞けない来歴や、お手元のお仕事ぶりをお聞きしたい。そしていつかまたカラオケで美声を拝聴したい。