終活で絶対にやっておかなければならないことは、2つだけ
記事:春秋社
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「迷惑かけて ありがとう」。昭和の時代、プロボクサーからコメディアンになって人気を集めた、たこ八郎さんの言葉です。私はこれこそ、終活の極意だと思っています。
周りに迷惑かけない人なんていません。むしろ迷惑をかける相手がいること、手間や面倒を迷惑と感じない関係性の方が大事です。この本で一番伝えたいのは、そのことです。
家族や親しい方を亡くされた経験をお持ちでしょうか。経験されたことがあれば、死別の辛さはもとより、死別後のさまざまな手続きが大変だったはずです。どんなことをしなければならなかったでしょう?
葬儀社の手配と葬儀の準備、親類や故人の友人など誰に連絡するかの選択、火葬・納骨、故人の身の回りの品の整理・処分、遺産の分割協議、故人が結んでいた様々な契約──たとえば電気・ガス・水道といったライフライン、賃貸住宅、ネットフリックスのようなサブスクリプション、生命保険など──の解約手続きといったことです。限られた時間の中で実に多くのことに向き合ったはずです。怒涛のような時間ではなかったでしょうか。
そんな経験があるからでしょうか、遺された家族や友人らに「迷惑をかけたくない」と、終活される方が少なくありません。具体的には、たとえば自分の葬儀やお墓、遺影の準備を自らしておく。あるいは断捨離で身の回りの品を少なくする。「その時」に備えて連絡先リストを作ったり、パソコンのパスワードなどを残したりする。エンディングノートで必要と思われることを指示しておく……。中には、自身の葬儀で流す音楽や直来での食事内容、式次第など内容まで事細かく指示されて逝かれる方もいらっしゃいます。
それは確かに素晴らしいことです。でも、遺された人たちが故人の思い出を語りあい、共有しながら葬儀の準備をすることもまた大切な時間ではないでしょうか。死後事務も故人との別れを徐々に受け入れていくための時間になっているかもしれません。共に生きた時間を振り返り、感謝したりつながりを再認識したりするためのきっかけになるかもしれません。そう考えると、すべてを準備しておくことが一概に遺された人たちのためになるとは言い切れないと思うのです。
それに実際、どれだけの方が終活を「やり遂げて」いるでしょうか。やはり死を前提に行動することが辛いからとやめてしまうこともあるでしょう。エンディングノートを書き始めたのはいいけれど、ここまでやればいいという範囲が決まっているわけではないので、どこまで手をかければいいのか途方に暮れてしまう。それで「面倒だからあとで」と先延ばしにすることがあるかもしれません。誰かが「これが三回目の終活」などと冗談めかしていえば、「実は私もどこから手を付けたらよいかわからなくて中途半端なまま。もう一度取り組んでみようかな」と心丈夫に感じる人もいるはずです。
結果的にそれで何もしていなかったという事態だけはぜひ避けたいものです。いくら「縁起でもない」からと避けていても、いつかは必ず、誰もが「万一」の時を迎えます。なにもすべてを準備万端にする必要はなくとも、やはりある程度、終活しておくことは必要だと思うのです。
では、ある程度とはどんなことでしょうか?
もしも、終活で絶対にやっておかなければならないことは、突き詰めると二つだけだと申し上げたらどうでしょう。疑問に感じるかもしれませんが、本当に二つだけだと思うのです。さらに突き詰めていくと、結局は本当にするべき終活は一つだけになるのではないかとさえ思っています。
ひとつ目は、最期まで自分らしく生きるために、人生の最後の過ごし方、つまり身体が不自由になったときに、どこでどんな介護や医療を受けて過ごしたいかを考え、家族や友人ら周囲の人たちとその考えを共有しておくことです。本文できちんと説明しますが、その共有するプロセスを国は「人生会議(ACP)」という言い方で広めようとしています。もう一つは、遺言を作成するなどして最後に残る財産の行方をはっきりとさせておくことです。どちらも他人に任せ切ることができない、自分で考えて行動する必要があることです。
お墓や葬儀、様々な死後の手続きなどは自身が亡くなった後のことですから極端な話、なにも準備していなかったとしても自身が困ることはありません。よほど複雑な家庭事情などがない限り、残された家族ら、あるいは友人、時には行政がなんとかしてくれるはずです。遺体や遺骨が道端に捨てられる、などということはまず起きないことですよね。でも、介護や医療のことは自分自身が生きている間に体験することです。痛い思いや、本当は望んでもいなかったことを経験するかもしれません。まさにわが身に降りかかってくるのです。だから人生会議は重要なのです。
遺言を作成しておかなければ、遺産をめぐって家族同士が争う「争続」が起きる危険があります。「自分には大した財産がないからそんな心配はない」という人こそが、実は最も危ないことは、実際に裁判で争われている事件を統計的にみても明らかです。住んでいる家が一番の財産という場合にこそ、争いは起きやすく、それこそ亡くなってから「迷惑をかける」ことになりかねません。相続人がいないから争いの心配がないよという方は、黙っていれば財産は国のモノです。
「さっき、突き詰めると終活に必要なのは一つだけといったが、どちらのことだ?」と思われるかもしれません。でも、どちらでもなくて、この二つに共通していることこそがもっとも大切です。すなわち、「つながり・関係性」を意識し、その関係性を太く、強くしていくことです。迷惑をかけないのではなく、面倒や手間を迷惑とは感じない関係性を生前につむいでおくことが大切だと思っています。それを私は「集活」といっています。
集活とは「集める活動」ですから、一つには終活に関わるさまざまな情報を集めることを指しますが、肝心なのは「集う活動」、つまり集まって話をする、縁をつむぐ、つながりを求める活動です。要はコミュニケーションです。自分で死後のことまで準備万端にしたいと思ったら、家族や友人らと「終活しようと思うんだけど、どう思う?」と話す機会を持ってほしいのです。家族らの意見も聴いてほしいのです。逆に、もしも「死んだ後のことなんて遺族に任せておけばいい。終活なんて不要だから何もしない」とお考えでしたら、それは素敵な信頼関係だとは思います。でも、その旨をきちんと伝えておくことが大切です。それだけ信頼しているんだよ、と。「終活を意識したら集活を」。駄洒落ですが、これこそが終活のポイントだと考えます。
先ほど述べたように、終活はともすると「迷惑をかけたくない」あまり、すべてを「自分で」となりがちです。でも、死後に自分で棺に入ったり、役所に出向いてさまざまな手続きをしたりはできません。最後は必ず「誰か」を頼らねばなりません。他者と生きるとは、多かれ少なかれお互いに「迷惑」をかけあうことです。詰まるところ「迷惑をかけない=孤立」以外の何物でもありません。迷惑をかけあえる関係性や、面倒・手間を迷惑とは感じない関係性を結ぶこと。最期に「ありがとう」といえる相手のいること。「あとは任せた。よろしく頼む」といえる相手がいること。それこそが豊かな人生であり、幸せと呼ぶのではないでしょうか。
それは同時に、自分自身を含め、どんなに大切な相手であっても誰もが必ずいつか死を迎えるという事実に向き合うことでもあります。この気づきは社会をも豊かにすると考えます。死に向き合う他者の痛みや哀しみに気づき、寄り添える関係性が張り巡らされるのですから。グリーフ(喪失に伴う悲嘆)へのケアが当たり前の「共感・共苦の社会」です。社会福祉分野で最近よく使われる言葉でいえば「コンパッション」社会です。地縁や血縁といったコミュニティーがやせ細り、ともすれば孤独や孤立に陥りがちな現代社会に求められていることではないでしょうか。私は、この気づきから得られるであろう「利他」の行いこそ、孤立や分断の進むいまの社会に不可欠なものだと考えています。同時にそれこそが実は自分自身の幸せにもなるのだ、と思っています。
たこ八郎さんはボクシングの後遺症で失禁や記憶障害があり、周りに「迷惑」をかけたかもしれません。それでも多くの人に愛されました。葬儀では赤塚不二夫さんやタモリさんら友人たちが三本締めで見送ったそうです。いまも東京・谷中の法昌寺には赤塚さんらが発起人となって建てた「たこ八郎地蔵」があり、胴体部分には「めいわくかけてありがとう。」と刻まれています。
終活は決して死だけに目を向けるものではありません。むしろ、死を前提に「残り時間」を意識することが肝心であり、自分が生きてきた歩みを振り返りながら、これからどう生きていくか、他者とどう暮らしていくかを考えて行動する機会です。更には、自分のためにも、遺される人たちのためにも、社会をより安心して過ごせる場にするにはどうするかを語り、行動することでもあります。どうせなら最後まで心豊かに、幸せに生きたいものです。
この本を、幸せとは、他者とつながることの意義とは、といったことを考えるきっかけにしていただければと思います。終活に臨むご本人だけでなく、親の「これから」を思うご家族、自身の老後をボンヤリと考え始めた皆さんにも役立つのではないでしょうか。