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自由なシニアたちへ 面白きこともなき世を面白く 平松洋子

各地で開かれる自転車愛好の催しには、シニアの参加者も少なくない=2022年11月、栃木県足利市。後ろは史跡足利学校

 おぎゃあと産声を上げてから幾星霜。高齢を生きる者の脳裏に“閉幕時間”がチラつくのは必定である。健康、介護、墓じまい、とかく悩ましい。いっぽう思い出すのは、「面白き こともなき世を 面白く」(長州藩士、高杉晋作)。

 定年退職直前、ふと思い立って輪行を始めたのは大学教授で翻訳家、伊藤礼。ほどなく自転車数台を操るようになり、古希を迎える頃には走行総距離約五千キロ。東京、房州、碓氷峠、北海道……『こぐこぐ自転車』(伊藤礼著、平凡社=品切れ)には、飄々(ひょうひょう)とペダルを踏む日々が綴(つづ)られる。

発見、感動、記憶

 最もシンプルな乗り物として愛される自転車だから、哲学や美学の文脈で語られたりもするけれど、どこ吹く風。乾き気味の筆致、緻密(ちみつ)な観察眼、サイクリングでもツーリングでもなく、超元気とかアンチエイジングとも無縁。転ぶ姿も筆にのせ、恬淡(てんたん)として可笑(おか)しい。

 70代に入るといきなり家庭菜園を始め、その顛末(てんまつ)を『ダダダダ菜園記』(ちくま文庫・814円)に綴った。農業に没入した理由は、深沢七郎の文章「生態を変える記」に触発されたこと、畑仕事が「疑問と発見と感動」をもたらしたこと、そして、戦中戦後の食糧難により、父(文学者、伊藤整)とともに畑を耕した少年時代の記憶が頭をもたげたこと。徹頭徹尾〈思考と身体と地面〉を繫(つな)ぐ地続きのひとは、昨年90歳で静かに歩みを止めた。

 書名からして、ぐうの音も出ない。『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて ル=グウィンのエッセイ』(アーシュラ・K・ル=グウィン著、谷垣暁美訳、河出書房新社・2640円)は、『闇の左手』『ゲド戦記』『西のはての年代記』など、ファンタジーやSF小説の巨星による生前最後の随想集である。きわめて論理的で明晰(めいせき)、批評精神に富む文章は、ル=グウィン80代の地点を示唆して刺激的だ。

生者を結ぶ紐帯

 全41編。文学論、ホメロス論、愛猫パードを巡る詩学、ユートピアとディストピア、フェミニズム、進化論、朝食の卵……縦横無尽。歴史の流れを俯瞰(ふかん)する大胆な文章展開は、老いの特権だといわんばかり、抵抗の楔(くさび)を打つ。

 たとえば、「怒りについて」の一編。政治的な怒りと私的な怒りを区別して語り、怒りと恐れの関係を繙(ひもと)くのだが、結びの一文は何度読んでも感銘を受けずにはいられない。

 「どうすれば、怒りを憎悪、復讐(ふくしゅう)心、独善性から離れさせ、創造と共感に役立つものにできるのだろうか?」

 本書は、見上げた夜空で瞬く星座のようだ。ル=グウィンの言葉と存在を照らし、老いがもつ普遍的な価値を私たちに語りかけてくる。

 さて、“閉幕時間”とは、もちろん死を指す。誰にも等しく訪れる終焉(しゅうえん)は、まさに生の一部だと説く書物を紹介したい。『死を生きる 訪問診療医がみた709人の生老病死』(小堀鷗一郎著、朝日新聞出版・2420円)。訪問診療医として看取(みと)った市井の人々の最期の場面を数多く挙げ、死に対して無関心を装う世間の風潮に異議を申し立てる。死の忌避は、生をないがしろにする行為ではないか、と。

 本書が終末医療分野の一冊に収まらないのは、医師としての自分を客体化する著者の態度にある。定年退職するまで外科手術のスペシャリストとして邁進(まいしん)、患者個人との向き合いを避けてきたのにもかかわらず、老年になって始めた訪問診療の仕事が劇的な変化をもたらしたと書く。さらに、祖父、森鷗外や無名の画家として生きた父、小堀四郎など森家の人々の存在が色濃く重なり合い、読者は気づかされるはずだ。死は、生ける者を結ぶ紐帯(ちゅうたい)でもある。

 介護や医療問題ではなく、死はあらかじめ日常の一部なのだ。自らの閉幕を身近なものとして捉えれば、むしろ老年は「面白きこと」に満ちる。=朝日新聞2024年9月21日掲載