ETCもスマホ地図も……現代の空間はデジタル技術で動く!――「デジタル地理学」への招待
記事:明石書店

記事:明石書店
「デジタル・ジオグラフィーズ」という言葉を初めて目にした人は、もしかするとグーグルマップのようなデジタル地図、あるいは地理情報システム(GIS。地理情報をコンピュータ上で地図として表示・利用するための技術)のことを思い浮かべるかもしれない。間違ってはいないのだが、本書が扱っているものはそれらだけではない。
ジオグラフィーズという言葉には、現象としての「地理」と学問としての「地理学」という二つの意味がある。地理もその学問である地理学もデジタル技術との関係をますます強めており、そうした関係性について考えるのが「デジタル地理学」という取組みである。
単数形のジオグラフィーではなく、複数形のジオグラフィーズであることが重要である。現象としての地理には自然現象(自然地理)もあれば人間活動(人文地理)もある。本書が扱うのは人間活動であるが、それも経済活動、文化活動、政治活動など様々である。
学問としての地理学も一枚岩ではない。どの分野もそうだと思うが、地理学も主題や対象、依って立つ理論・思想・方法論などに応じて様々に分かれている。デジタル地理学はそうした地理と地理学の複数性や多様性を前提とした取組みである。
地理学は「空間」や「場所」に重きを置く学問だと言われる。例えば、地理学者はよく「どこwhere」に注目する。人々はどこに住むのか/住めるのか? どこからどこへ移動するのか/移動できるのか? 企業はどこに立地するのか/立地できるのか? 地理学者はそういった問いを立てることが多い。今の時代、いずれもデジタル技術が深く関係している。
移動についていえば、ちょうどこの原稿を書いているさなか、高速道路の自動料金収受システム(ETC)障害に関するニュースを耳にした。中央自動車道や東名高速道路などでETCが機能しなくなり、料金所の発進制御バーが上がらず、大渋滞が発生したようである。
〔編注:2025年4月6日から7日にかけ、NEXCO中日本管内の高速道路料金所106か所でETCが作動しないトラブルが発生し、利用車約92万台に影響が及んだ。〕
高速道路を通ってある場所から別の場所へ移動するというありふれた行為はソフトウェア(コード)によって支えられている。日本のETC普及率は9割を超えており、ソフトウェアのトラブルは高速道路という空間の機能停止につながる。
原著の編著者の一人であるロブ・キッチンと第4章を担当したマーティン・ドッジは、こうしたソフトウェアの存在なしには成り立たない空間を「コード/空間」と名付けた。彼らが2011年に発表したCode/Space: Software and Everyday Life(『コード/空間――ソフトウェアと日常生活』未邦訳)という本は、本書の背景となっている。
ここ10年ほどの間で日本でも注目され始めたスマートシティは、コード/空間の最たるものだろう。都市だけでなく農村においても「スマート農業」のようなかたちでデジタル技術が広まり、コード/空間が展開されている。
本書ではこうした都市、農村、移動だけでなく、大衆文化、労働、産業、開発、ガバナンス、地政学など、文化、経済、政治に関わる様々な人間活動(人文地理)とデジタル技術との関係が紹介されている。
学問としての地理学とデジタル技術との関係についていえば、最もわかりやすい例は冒頭でも述べたデジタル地図とGISだろう。日本では2022年度から高校の地理歴史科で「地理総合」が必修化された。地理総合には三つの柱があり、その一つが「地図とGISの活用」である(あと二つは「国際理解と国際協力」、「防災と持続可能社会の構築」)。
先日、私が勤務する大学で地理学教室の対面式というものが開かれた。教員と新入生が互いに自己紹介をするそのイベントで、ある教員が新入生に対して「GISを知っている人は手を挙げてください」と言ったところ、ほぼ全員が手を挙げた。また、2025年度の新入生の大半は2006年頃に生まれている。グーグルマップのサービス開始が2005年である。彼らはいわば「デジタルマップ・ネイティブ」なのである。
デジタル地図とアナログ地図は何が異なるのだろうか? 「カルトグラフィー〔編注:地図学、地図作成法〕とGIS」をテーマにした第11章では、今日のデジタル地図は高度に対話的(インタラクティブ)であること、インターネットをプラットフォームにしていること、ソフトウェアによって制御されていることが強調されている。
一つ目と二つ目の特徴は地理学における参加型調査の展開を促している。先ほど地理学者は「どこ」に注目すると述べたが、今や地理空間情報(何が、どこに、どのように存在するのかに関する情報)を収集したり分析したりするのは地理学の専門家だけではない。地理学者の中にはOpenStreetMap(Wikipediaのように自由に編集可能なオンラインのデジタル地図)などを利用して地域住民が持っているローカルな知識を集めたり、非専門家の一般市民と協力して地域の問題解決に取り組んだりする者がいる。
三つ目の特徴は先ほど述べたコード/空間とも関連しており、コードのわずかなトラブルが地図全体に大きな影響を及ぼす可能性があること、そして地理学や地図学(カルトグラフィー)の教育がプログラミングやソフトウェア工学にまで広がっていることを意味している。
人文学的な取組みにおいてもデジタル技術が利用されている。例えば歴史地理学分野では「歴史GIS」という取組みが展開され、古地図の分析などにGISが活用されている。また、フィールドワークを行う際はデジタルカメラで写真を撮影するし、時には動画を撮ることもある。インタビューやエスノグラフィーのような質的調査においてもボイスレコーダーなどのデジタル技術が利用される。これらは地理人文学(ジオヒューマニティーズ)という新たな分野を生み出している。
地理学に限った話ではないが、データの収集・保存・分析・管理、論文の執筆・投稿・共有のために様々なハードウェア、ソフトウェア、プラットフォームを利用する。最近、日本の地理学分野でもオンラインアンケート調査が増え始め、その可能性と課題が議論されるようになった。本書では触れられていないが、研究活動や学会運営などにおけるデジタルディバイドや情報の公開性・秘匿性なども論じられるべき重要な問題だろう。
本書はあくまでも「手引き書」であるため、デジタル技術に詳しい人は読んでいて物足りない部分もあるかもしれない。また、原著の編著者らも日本語版序文の中で述べているが、本書では紹介されていないテーマもたくさんある。
特に人工知能(AI)やディープラーニングの影響力は無視できないだろう。例えば、それらを利用して衛星画像から建物を検出したり、土地利用を評価したりする取組みが進んでいる。その一方で、ディープフェイク技術によって偽の衛星画像が作れてしまうという問題も生じている。
最近ではデータセンターと周辺環境との関係が問題となっている。「サイバースペース」や「仮想空間」といった言葉を使うと、どこか地に足のついていない感じがしてしまうが、当然ながらそれらを支えているコンピュータは電気で動いている。ビッグデータやAIといったデジタルなものを動かすためには電力が必要である。データセンターは大量の電力消費、温室効果ガス排出、冷却水の大量使用などの点で環境負荷が懸念されている。
他にも論じるべきテーマはたくさんあるだろう。監訳者解題にも書かせていただいたが、デジタルなものと地理や社会との関係を考えるきっかけとして、本書を活用していただければと思う。