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日韓のあいだを「ワッタカッタ」する私たちの姿――稲川右樹さん・評『ライフスタイル移住の社会学』

記事:明石書店

ソウル地下鉄のマタニティシートに置かれたぬいぐるみ(2018年撮影)
ソウル地下鉄のマタニティシートに置かれたぬいぐるみ(2018年撮影)

 韓国に暮らしたことのある日本人なら、本書『ライフスタイル移住の社会学』(今里基、明石書店)に思わず膝を打つ場面が、きっと何度もあるだろう。かくいう私自身、2001年から2018年まで、延べ17年間あまりを韓国で過ごした。20代と30代のほとんどを韓国で生きた、いわゆる「在韓日本人」の一人だった。

 私の場合は「韓国語という言語そのものへの関心」が韓国に渡った最大の動機だった。言葉のしくみや音の響きに惹かれて、当初1年だけだった韓国暮らしの計画はいつしか17年を超え、そのまま生活そのものを韓国に根付かせることになった。

 今里氏の本は、そうした自発的・主体的な移住を「ライフスタイル移住」と位置づけ、それを学術的に整理しようとするものである。その定義にもとづけば、私もまさにその一人ということになる。加えて、私はいわゆる「日韓夫婦」でもある。妻は韓国人であり、娘二人は韓国で生まれ、小学校時代を韓国で過ごした。娘たちは日韓バイリンガルであり、アイデンティティは韓国人に近いが、文化と言語のあいだを驚くほどしなやかに「ワッタカッタ(行ったり来たり)」している。

『ライフスタイル移住の社会学:日本から韓国への生活転換の実証研究』(明石書店)
『ライフスタイル移住の社会学:日本から韓国への生活転換の実証研究』(明石書店)

 本書が提示するもうひとつの重要なキーワードが、この「ワッタカッタ」だ。日本から韓国へと移動しながらも、移住者はどちらか一方に完全に「定住」するのではなく、むしろ2つの社会のあいだに位置し、必要に応じて行き来しながら自分の生活をデザインしていく。これは、私自身の生活感覚にも驚くほどフィットする視点だった。

 2001年に韓国に渡った当時、日本からの韓国移住者といえば、「駐在員」「在日コリアン」「結婚移民」、そして何の因果か韓国に強い関心を持ってしまった「変わり者の日本人」という4類型に分けられる印象があった。特に4つ目の「変わり者の日本人」は圧倒的マイノリティだった。当時、自らの意思で韓国に住む者などほとんどおらず、いたとしても「オタク気質の日本人」が主流だった。そして、私自身も明らかに「変わり者」に分類される存在だった。

 当時、韓国に駐在する日本人のあいだでは、「韓国駐在は二度泣く」という言葉がよく知られていた。最初に赴任が決まったときは行きたくなくて泣き、帰国するときには名残惜しくてまた泣く。つまり、赴任は最初ネガティブに受け止められ、その後、韓国社会への親しみや人間関係によってイメージが大きく変わるということだ。こうした言葉が流通していたこと自体、当時の「韓国」という行き先があまり人気のない場所だったことを物語っている。

 その状況が劇的に変わったのが、2003年の「冬ソナ」に端を発する韓流ブームだった。日本社会全体の韓国へのまなざしが一変した。韓国はそれまでの「近くて遠い国」から、「文化的に魅力あふれる隣国」へと変貌を遂げた。2010年ごろになると、在韓日本人の顔ぶれにも大きな変化が見られるようになった。これまでは「語学オタク」や「専門職」的な人が多かったが、渋谷や難波のカフェにいそうな、洗練された雰囲気の若い日本人女性たちをソウルの弘大(ホンデ)や梨大(イデ)でも見かけるようになった。まさに「ライフスタイル」として韓国を選び、そこで自分らしく暮らす人々である。

 この頃から、日韓のあいだの「壁」は急速に低くなっていった。特に食文化のボーダレス化は顕著だった。ソウルでは本格的なラーメンやカレーが食べられる店が急増し、日本人のパン職人が営むベーカリーには若い韓国人が行列をつくった。逆に、東京の新大久保や大阪の鶴橋には韓国風のファッションやフードを楽しむ若者が溢れた。このように、日韓両国の若者たちは「文化の交差点」で生活をデザインするようになっていった。

デジタルメディアシティ駅近くのすてきなカフェ「공간(空間)」(2018年撮影)
デジタルメディアシティ駅近くのすてきなカフェ「공간(空間)」(2018年撮影)

 現在、私は大学で韓国語専攻の学生たちを相手に教壇に立っているが、「将来は韓国で暮らしたい」と語る者が毎年必ずいる。その多くが、高校時代にはクラスの人気者だったであろう、明るく社交的な今時の垢抜けた若者たちだ。「オタク気質」で「変わり者」の人間からすると、彼女たちの発する「陽パワー」の明るさに目眩がすることも日常茶飯事だ。

 一方で、最近ではSNSの中で「韓国在住」や「日韓夫婦」といった言葉が、一種のブランドのように消費される側面も出てきた。たしかに注目を集めるラベルであるが、その裏には語られない苦労や迷いもある。アイデンティティや所属、言語の壁、家族の教育問題など、現実の移住生活は必ずしも「おしゃれ」で「映える」ものばかりではない。本書が描くライフストーリーの多様さは、そうした表層的なレッテル化へのアンチテーゼとしても機能している。

 本書の優れている点は、個々の移住ストーリーを、統計や制度史の分析と並列させながら語っている点だ。学術的な厳密さを保ちつつも、人間の生きざまや感情の揺れにも敏感であり、読みながら何度も頷く場面があった。

 『ライフスタイル移住の社会学』は、かつてのように一方通行で片道切符の「移住」ではなく、複数の社会や文化の「あいだ」で生きるという生のあり方に光を当てている。国境を越えることが「越境」ではなく「選択肢の一つ」になった時代。私たちはその流れのなかで、何を選び、どう生きるのか。この本は、そうした問いに静かに、しかし確かに応えてくれる一冊である。

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