都市を殺さないために、都市を殺すやり口を知る――『都市殺し:ジェントリフィケーション・不平等・抵抗』
記事:明石書店
記事:明石書店
「都市殺し」とは、大胆なタイトルである。何がどう都市を殺すというのか。
ジャーナリストのP・E・モスコウィッツによれば、都市を殺すのは、全米いたるところで発生しているジェントリフィケーションである。この言葉は2010年代の初めまでに知られる言葉になったというが、日本語に置き換えるのは難しい。辞典によれば「都市の高級化」などの訳語が当てられている。「階級浄化」とか、「都市の富裕化現象」との見出しを立てる解説もある。これらの日本語訳は決して間違いではない。だが、重要なのはそのプロセスである。少し詳しく説明してみよう。
ジェントリフィケーションの舞台になるのは、たいていにおいて地価の低い、「衰退」したと見られる地域である。そうしたエリアの街並みが少しずつ変わっていく。昔からある街角の床屋や八百屋などおなじみの建物が壊され、高級ブティックやコンブチャのカフェあるいはクラフトビールのブリューパブがぽつぽつ建ち始めるのである。気づけば注目の町などと報道されるようになる。変化は加速し、以前に住んでいたような住民は一掃され、変わりつつある街に魅了され集まってきた初期の移住者もいなくなり、超富裕層が高層コンドミニアムに居を構えるようになる。すっかり金持ちの街になってしまうのである。
著者モスコウィッツは、地域も性格も全く異なる4都市を丹念に歩き、人びとがどのようにこのジェントリフィケーションを経験してきたのかを調べる。分析の舞台となるのは、2005年にハリケーンに襲われ甚大な被害を受けたルイジアナ州ニューオーリンズ、2013年に市が破産を経験したミシガン州デトロイト、テック・ブームに乗り一挙に超富裕層の都市となったカリフォルニア州サンフランシスコ、そしてモスコウィッツの故郷でもあり、世界都市として急速に変貌を遂げるニューヨーク州ニューヨークである。
アメリカ南部、中西部、西海岸、東海岸と異なる地域のこれらの都市をめぐり、モスコウィッツが耳を傾けるのは、様相を変える街並みを怒りや落胆の目で眺める旧住民の話だけでない。にぎわいを取り戻すという使命感を持ちジェントリフィケーションを進める開発業者や政治家、新住民の話にも注意を向けるのである。
それらのやりとりがあぶり出すのは、ジェントリフィケーションがもたらす混乱と動揺の実態である。プロセスがいったん起動すると、街は確実に変わっていく。ますますヒップになる一方で、長い間かけて育まれてきた「コミュニティの感覚」は消失してしまう。都市を都市たらしめていた、昔からよく見知った関係が生み出す、柔軟で、あたたかいコミュニティはそこにはない。旧住民は家賃の高騰により街を出て行かざるを得なくなる。都市は、すでに死んでいる、そうとも言える状況に陥ってしまうのである。
モスコウィッツが暴こうとするのは、ジェントリフィケーションを生み出すしくみ(本書の原題でもある都市の殺し方)である。ジェントリフィケーションは、一見ばらばらに、それぞれの都市で自然発生しているように見える。新しくできる店や街並みが都市を越えて画一的であることはないし、開発の担い手も異なる。しかし、あらゆる都市で個別に起こっているように見えるジェントリフィケーションの根っこは同一だと著者は論じる。大事なのは、その根っこが何かを理解することで、私たちに何ができるのかを考えることである。
モスコウィッツによれば、この「根っこ」は、資本主義経済に他ならない。たとえば大気汚染はどこでも起きるつかみどころがない現象だが、その原因は突き詰めれば化石燃料経済である。同様に、ジェントリフィケーションをいたる所で引き起こしている原因は不動産経済ということになる。
モスコウィッツはこの不動産経済の複雑なしくみに光を当てる。土地をいかに安く買い、高くして売るか。不動産業や金融業にとって、利益の最大化は至上命題である。かれらは資金を調達し、土地を取得・開発し、高い価値を付けて売る。そのサイクルの中にジェントリフィケーションは位置づけられるのである。
同じく重要なのは、ジェントリフィケーションを欲するのは都市の自治体だという点である。製造業の衰退や白人の郊外への脱出(いわゆるホワイトフライト)を経験した都市自治体は、貧窮状態を脱するため、固定資産税などの税収を増すことができるように工夫を重ねた。債権を発行するために格付け機関の監視下にもあった自治体は、規制を緩和し、優遇措置を与え、金持ちや企業を呼び込むための開発を促進した。旧住民の暮らしを支えていた街並みは、こうした不動産経済にとってはリニューアルすべき対象であった。
モスコウィッツがさらに強調するのは、不動産経済と人種マイノリティに対する差別との歴史的な関わりである。『都市殺し』は、ジェントリフィケーションの始まりを第2次世界大戦後に進んだ郊外化に求める。住宅ローン補助や高速道路建設などを進めた連邦政府と不動産業者が手を組むことによって本格化したのが郊外開発であった。こうした郊外に戸建て住宅を所有する夢を叶えられた白人に対し、アフリカ系をはじめとする人種エスニックマイノリティは、差別のため郊外に移転することができず都市に残らざるを得なかった。かれらはインナーシティの荒廃した住環境のなかで、コミュニティを築くしかなかったのである。
ジェントリフィケーションは、それから半世紀がたち、「郊外で育ち、都市に憧れる」若い、高学歴で、豊かな白人が、都市への帰還を果たすなかで発生した現象だとも言える。皮肉なのは、郊外化の恩恵を受けることができず都市に残された人びとが、今度はジェントリフィケーションによって都市から出て行かざるを得ない状況に追いやられたということであった。
都市殺しの実態と手法を4つの都市を舞台に描き出した後、モスコウィッツが提示するのは都市を生かすための処方箋である。この解決策は、都市というより社会のしくみ全体を問い直すもので、新自由主義という時代に生きてきた私たちには極めて説得的なものである。
この「私たち」には、当然日本語話者の私たちも含まれる。ジェントリフィケーション下にあるニューヨークのブルックリンに暮らし、その経験からジェントリフィケーションの意味を問い直した好著『ブルックリン化する世界――ジェントリフィケーションを問い直す』(東京大学出版会、2023年)の著者である森千香子氏が解説で述べるように、国家財政が緊迫するなか、あらゆる都市が「今ここにはいない外部の住民や観光客、そして企業をいかに惹きつけるか」その「魅力度(総合力)ランキング」での成績を上げることに躍起になっている。
そうしたヴィジョンの実現は、都市を殺すことにならないのだろうか。規制緩和のもと乱立するタワーマンション、証券化を通して集まる投資により進行する開発、「刺さる」「心躍る」「ラグジュアリー」などを街の評価の指標にすることは、都市殺しの進行に他ならないのではないだろうか。もちろん、そこは心地よい場所である。訳者解説で触れたように、いやおうなしに進むジェントリフィケーションに対して、私たちは違和を感じるだけでなく消費者として魅了されもする。そうした「相反する気持ち」を持ってしまう人は少なくないだろう。ジェントリファイされた空間でボタニカルなスムージーを飲めば、流行をつかみ安堵する自分を発見できる。そう知りつつも、ローカルな酒場や食事処をめぐり、地元の人との語らいを楽しみたい気持ちを拭い去ることもできないのである。
都市殺しの正体が分かれば、その進行を食い止めることも可能になる。モスコウィッツは本書の結論において、ジェントリフィケーションに対抗するための方策として、公有地の拡大、住民参加、賃借人保護、公営住宅建設、インフラ整備、富裕層への課税など具体的な手段を挙げた上でこう述べる。「隣人に挨拶することは、利益を生まない、商品化できないがゆえに、真にラディカルな行為なのだ」(302頁)。著者が指摘するようにジェントリフィケーションのエンジンが不動産価値の上昇を前提とする資本主義経済だとすれば、私たちを動かすエンジンは交換価値のみを追求しないささやかなラディカリズムにある。『都市殺し』がジェントリフィケーション、私たちの都市、社会や暮らしをめぐるあらゆる議論のきっかけなることを期待したい。