オリンピック・筋トレ・ドーピング スポーツを考える人文書 紀伊國屋書店員さんおすすめの本
記事:じんぶん堂企画室
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「祭は終わった、永遠に」(諸星大二郎「妖怪ハンター」シリーズ「闇の客人」より)。過疎に悩む某県・大鳥町。地域活性化のための観光事業の目玉として百年近くも前に断絶したと言われる古い祭を復活させた。幸神を招くはずだったその祭は、しかし祭のとある改変により禍つ神を招いてしまい、大惨事となる。すべてが終わった後の、主人公・稗田礼二郎のセリフである。
「何かスポーツをされていますか」。日常生活でよく聞く質問である。これはスポーツということばに、健康とか爽快とかといった、ポジティブなイメージがあるからだろう(おそらくギャンブルについては質問しない)。しかし、本当にポジティブなだけだろうか。今回は、スポーツについて「オリンピック」「筋力トレーニング」「ドーピング」をテーマに考えてみたい。
まずは、オリンピック、ただしここではそれへの反対運動について、ジュールズ・ボイコフ『オリンピック 反対する側の論理――東京・パリ・ロスをつなぐ世界の反対運動』(作品社)をひもとこう。
多くの人が忘れてしまったようにも思えるが、東京2020オリンピックは、コロナ禍での開催強行が確定するまでは、中止・延期を希望する人が大多数であった。しかし、コロナ禍でなければ、それはごく少数であったはずだ。そして、本書はコロナ禍と関係なく反対している少数派の論理・運動を明らかにしている。
国際オリンピック委員会(IOC)の横暴、誘致に伴う汚職、膨れ上がる膨大な費用、ジェントリフィケーション、警察・軍による都市の監視強化、環境破壊などの問題は、開催地にかかわらず、オリンピック共通の問題といってよい(まさに「禍つ神」ではないか)。ボイコフは、このような問題に対峙する世界各地の反対運動を、2028年ロサンゼルス大会の返上を求めるノーリンピックスLAの運動を中心に、現地で綿密な調査を行い、またカルチュラル・スタディーズや批判理論などを参照しつつ、その論理と背景を纏めている。特にロスの運動は、資本主義批判を背景としており、ボイコフはバーニー・サンダースなどに見られるアメリカにおける社会主義の復権にしばしば言及している、社会運動論としても大変興味深い。
なお、オリンピック反対なんて、スポーツをやらない人の言うことでしょ、などと言うなかれ。ボイコフは元プロ・サッカー選手であり、オリンピックのアメリカ代表メンバーだったのだ。アスリートだからこそ、なのである。
続いて、筋力トレーニング(筋トレ)である。筋肉は裏切らない、が流行語になって久しいが、コロナ禍でも大手スポーツジムの新店開設が相次ぐなど、ブームは完全に定着している(まさか東京大学出版会が筋トレの教科書(石井直方・柏口新二・髙西文利『筋力強化の教科書』)を出版するとは思っていなかった。そして実際よく売れているのだ)。日常の健康維持やダイエットには筋トレが最適ということだろうか。また、競技スポーツでもトレーニングの一環として筋トレはこれまで以上に重要視されている。筋肉は卓越したパフォーマンスの源なのである。まるで幸神のようにも思える。
しかし、そうだろうか。平尾剛『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)は、この風潮に異を唱える。
平尾もまた卓越したアスリートである。元ラグビー選手であり、ラグビーワールドカップ日本代表にも選ばれている。そのアスリートとしての経験や科学的知見を元に、筋トレの功罪、「功績」は広く巷間に流布しているため、もっぱらその「罪悪」を、考察している。
「しなやかな身のこなし」「コツ」「身体感受性」「つけた筋肉」「ついた筋肉」「身体知」「全身協調性」といったキーワードを駆使し、またトップアスリートの実践などを参照しつつ、筋トレには「からだ全体のバランスを損なうという致命的な落とし穴がある」ことを示していく。平易な文章であるが、おそらくわかりやすいものではない。「わかりにくさ」を重視する平尾のテクストを、筋トレなんてやらない方がいいのだ、とわかりやすく理解できたと思うことこそが、著者の否定するところのものであるはずだ。ぜひ読んで確かめてみて欲しい。
最後はドーピングである。とはいえドーピングが禍つ神であることは明白ではなかろうか。ボイコフもそれを前提にIOCのロシアに対する曖昧な対応を批判しているし、ドーピングでパフォーマンス・アップなど平尾が筋トレより先に否定するのではないかと思われる。だが、ジャン=ノエル・ミサ&パスカル・ヌーヴェル編『ドーピングの哲学 タブー視からの脱却』(新曜社)は、ドーピングが単純に悪であるとは言えないのではないか、と主張する。橋本一径による訳者解説のまとめがわかりやすい。
本書が目指すのは、「ドーピング」を無反省に「悪」とみなして「反ドーピング政策」を推し進める世界的な趨勢から距離をとり、ドーピングがスポーツにとって、さらには現代社会にとってどのような意味を持つのかを、多様な観点から反省的に考察することである。『ドーピングの哲学 タブー視からの脱却』(p.300)
一例をあげよう。パフォーマンス向上のためにサプリメントや医薬品を服用する「ドーピング的振舞い」が日常化する社会において、スポーツにおいてのみその行為が厳しく糾弾されるのはなぜか。スポーツ精神がその根拠とされるが、この概念は極めて曖昧である(「いかさまはいけない」というルールなのだが、それは同語反復的なのである)。それゆえに、多くの弊害がもたらされていることも本書は詳らかにしている。ドーピングのみならず、スポーツと社会の関係を根源的に考察する上でも必読の一冊といえよう。
そもそもスポーツそれ自体は、幸神だろうか、それとも禍つ神なのだろうか。単純な話ではないことだけは確かだ。