1. じんぶん堂TOP
  2. 文化・芸術
  3. 言葉に愛されなかった言語学者による、出たとこ勝負のエッセイ集 ――川添愛著『裏の裏は表じゃない』書評(評者:武田砂鉄)

言葉に愛されなかった言語学者による、出たとこ勝負のエッセイ集 ――川添愛著『裏の裏は表じゃない』書評(評者:武田砂鉄)

記事:筑摩書房

『言語学バーリ・トゥード』『世にもあいまいなことばの秘密』著者による、新感覚エッセイ集
『言語学バーリ・トゥード』『世にもあいまいなことばの秘密』著者による、新感覚エッセイ集

「そのとき」の言葉で書く

 最近、事あるごとに「いつやるの? 今じゃない!」を流行らせたいと言っているのだが、流行る気配は皆無。「いつやるの? 今でしょ!」は人気予備校講師が流行らせたフレーズだが、確かに受験勉強は今やったほうがいいが、日常生活のあれこれが「今でしょ!」になると困る。「いつ選挙やるの? 今じゃない!」という現在に原稿を書いているが、即断=最適な決断だとされると、問うたり、考えたりする行為が軽んじられていく。

 本書に「明日やることは明日やる」と題した章がある。なんと素敵な考え方であろうか。私たちは、親や先生から、「明日、急にやってもできないんだから、今日のうちに準備をしておきなさい」と言われて続けてきた。正しい意見だ。その日に急にやろうとしても、確かにできない。できないから、言い訳をする。「いやでもね、まさかこうなるとはね……」などと言葉を重ねても無理が生じる。無理を指摘されてようやく謝ったりする。言い訳というのはとても大事で、自分の頭を活性化させる。自分ならではの言葉が出てくる。なぜって、そもそも無理がある状態なのに、言葉でどうにかしようとするのだから、強引に言葉が導き出される。そこでは自分の言葉が生まれる。

 著者は、自分の若い頃にSNSやチャットGPTがなくてよかったと感じるそう。「今私が書いている文章は、書くこと自体が第一の目的になっている」とある。私も同感。たとえば、この原稿依頼も、本を読んで感想を書いてください、と言われて書いているのだが、どのようにこの本の魅力を伝えればいいかと同じくらい、いや、下手すればそれ以上に、自分が「書くこと自体」を目的にしている。「さて、自分はどう思うんだ?」と自分に問いかける。今、こうして書いている内容を打ち込んでいるときにも、次に何をどう書くかの予定は立っていない。頭の中にモヤがかかっているところがあり、そこに焦点を合わせて、もうちょっとクリアにしてみる。この繰り返しだ。先の見えなさに耐えるため、自分の頭の中に言葉が必要となる。

「書こうと思った『そのとき』に自分の内部から出てきた言葉がベースにないと、自分の文章だとは思えない」し、チャットGPTが「いかにも私が書きそうな文章を生成したとしても、私はそれを自分の言葉だとは思えないだろう」と書く。「そのとき」にどのような言葉が出てくるかわからない。わからないのがいい。ある政治的な問題についての署名運動がなされていときに、著者は「まだ署名やってるよ」とSNSに書いている人を見た。その文言を、やっても意味ないことをやっている、揶揄していると受け止めたのだが、実際には、まだ署名期間中なので引き続き署名できると伝える文言だったそう。こうして人間は言葉を正確に受け取るとは限らないので、相違が発生し、揉めたりしながらも調整しようとする。言葉を届けるのは難しい。でも、難しいとわかっていないと届けられない。簡単に届けられると思っている場合、大半は言葉を相手に押し付けている。

 様々な媒体で書かれた原稿を編んだ一冊だが、それぞれの原稿に共通点があるとすれば、「そのとき」に考えた、である。今でしょ、と答えを急ぐのではなく、今じゃない、と先延ばしにしつつ、延ばしていく中で考える。考える「そのとき」の連なりが文章になる。「川添愛が書きそうなこと」はあれやこれやが生み出せても、「川添愛が書くこと」は川添愛にしか書けない。なぜならば、川添愛が何を書くかは、川添愛も「そのとき」までわからないからである。

川添愛『裏の裏は表じゃない』(筑摩書房刊)
川添愛『裏の裏は表じゃない』(筑摩書房刊)

『裏の裏は表じゃない』目次

はじめに

1 そういえば、あれって……
怖いCM
蚊の季節に思う
勉強嫌いの処方箋
脳内ジュークボックス
舐められる私
ティティヴィラスの悪戯
私の入場テーマ

2 考えはめぐりめぐって
カフェラテと誤謬
答えづらい質問
紙の本への思い
言葉と身体
なくてよかったもの
判断を助けるもの
良い変化はどう起こる?
型と創造

3 明日やることは明日やる
カンノーリへの道のり
ツルツルピカピカ
悪夢と付き合う
プロレス会場にて
自分で作るご飯
格闘ゲームの魅力
鼻のありがたみ
中世のチェコを疑似体験
私も歩けば何かに当たる

4 饒舌になる、その時
いい子ちゃんのグルメ道
格ゲー沼にハマる
極細針で紡ぐ宇宙
音符を読む
諭すお茶、祈るお茶
心に残る 猪木の言葉
『ヒクソン・グレイシー自伝』書評
リスボンで故郷を想う

5 言葉について考えるのが仕事だった
とある勘違い学生のアメリカ留学記
文章と言語モデルと「私」
四十年越しの答え
科学と文学について自分なりに考えてみた
翻訳できない「我」や「I」
書き言葉・話し言葉の功罪
言語学と私の奇妙な関係
災いの元に、ならぬため
「AI人材」育てるなら
日本語の「おじさん」、英語では?

6 それでも本は読んでいる
崖っぷち院生と「笛吹き男」
寺田寅彦とカレル・チャペック
綻びと向き合う勇気、そのための道具││三木那由他
『言葉の道具箱』書評
『星・星座』
『オリガ・モリソヴナの反語法』書評
新書で垣間見る、学者の魂
読む本が決められないときの対処法

7 あの時あったこと、なかったこと
おわりに

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ