朝ドラ「ばけばけ」主人公のモデル、小泉セツ&八雲夫妻の松江での日々
記事:筑摩書房
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松江の弱点は、冬の気候が厳しいことでした。特にハーンが赴任した一八九〇年から九一年にかけての冬は、記録的な寒さと大雪に見舞われたのです。まだストーブがない時代で、暖房は火鉢しかありません。寒さに弱いハーンはたちまち風邪をこじらせ、寝込んでしまいました。
このときハーンの身辺の世話をするために紹介されたのが、小泉セツでした。彼女の登場が、ハーンの日本永住を決めたのです。
セツは当時二十三歳、没落士族の娘で、当時は扶養家族を四人も抱え、言葉にできないほどの苦労をしていました。彼女が生まれた小泉家は、維新前には五百石の碌(ろく)をはむ家系でしたが、維新後は商売に失敗し、没落していました。セツは幼いころに親類の稲垣家の養女となりましたが、この稲垣家も同じように没落しています。
維新前ならお姫様だったはずのセツは十一歳で小学校を辞め、機織りの工場に出て家計を支え、十九歳で婿養子を迎えました。こうして稲垣家を盛り立てようとしたのですが、お婿さんは嫌気がさして一年ほどで逃げ出してしまいます。当時の『山陰新聞』によれば、松江居住の士族二千三百戸のうち七割が自活のめどが立たず、全体の三割が飢餓状態だったといいますから、無理もないかもしれません。
セツは大阪まで夫を追いかけましたが説得に失敗し、一人で松江に戻ってきました。以後、養父・養母と養祖父、さらに自分の実母までを針仕事と機織りで養おうと奮闘していましたが、そんなことができるわけもありません。限界に近い困窮に加えて、大寒波が重なったのです。この冬を越せるかどうかという瀬戸際で、この仕事の話が舞い込んだのでした。
当時、西洋人が「現地妻」のような女性をもつ例は少なくなく、彼女たちは「洋妾(ラシャめん)」と呼ばれる不名誉な存在でした。ハーンの家に住込めば、噂になるでしょう。武士の娘であるセツにとっては、大変な覚悟が必要だったと思われます。しかしセツは思い切って、自分と家族を救うために決断したのです。
自分自身どん底生活を体験したハーンが、この人を放っておけないという気持ちになるまであまり時間はかからなかったようです。もともと彼は、家族を抱えて奮闘している女性に惹かれる傾向がありました。もちろん、根底にあったのは母ローザのイメージでしょう。マティにも幼い息子がいました。セツには子どもはいませんでしたが、四人の年寄りを抱えていましたし、夫に捨てられたところはローザと同じでした。
ハーンとセツはともに、旧支配階級に属しながら、激動する時代についていけず没落したという点で共通点があったのです。そこに、言葉を超えて通い合うものがあったかもしれません。
それだけではなくハーンは、セツの人間性に強く惹かれました。「日本の女性はなんと優しいのでしょう。日本民族の善への可能性は、この日本女性の中に集約されているようです」と、チェンバレンへの手紙に書いたほどです。ハーンとセツは片言でコミュニケーションをとりながら、二人の生活を作り上げていくようになり、やがて内輪の結婚式が執り行われました。
ハーンの没後、セツが親戚の手を借りて書き残した『思い出の記』はすばらしい本ですが、その中に夫の性格を見事にいいあらわした箇所があります。
私が申しますのは、少し変でございますが、ヘルンは極(ごく)正直者でした。微塵も悪い心のない人でした。女よりも優しい親切なところがありました。ただ幼少の時から世の悪者共に苛められて泣いて参りましたから、一国者(いっこくもの)で感情の鋭敏な事は驚く程でした。
この文中に「ヘルン」とあるのは、松江に来るときに、辞令の中で「Hearn」が「ラフカヂオ・ヘルン」と間違って記載されていたためです。ハーンはこの誤記をむしろおもしろがり、わざわざ「ハーン」と改めなくてもよいと言いました。着任三か月目には「へるん」というハンコまで作らせたほどです。
ハーンの優しさをあらわす小さなエピソードを、セツが記しています。あるとき湖で子どもたちが、子猫を水に沈めたり引っ張り出したりして遊んでいたというのです。ハーンは昔から弱いものいじめ、動物いじめが大嫌いで、アメリカにいたとき、猫を殺した男に向けて拳銃を抜いたことまであります(運よく弾ははずれたのですが)。そんな彼ですから、子どもたちから猫をとりあげて「おお可哀そうの子猫、むごい子供ですね──」と言って懐に入れてやりました。この一件をセツは「大層感心致しました」と回想しています。びしょ濡れでブルブル震えている子猫はその後、ハーン夫妻が引っ越すときも一緒につれていきました。
ハーンとセツはやがて、お互いだけに通じる言葉を編み出してコミュニケーションをとるようになりました。それは「へるんさん言葉」と呼ばれ、日本語の単語や慣用句を使い、動詞・形容詞は活用させず、語順は英語・日本語折衷で何とかやっていくというもので、三章でふれたクレオール言語の誕生を思わせるものがあります。ハーン夫妻の子どもたちもこれをよく理解できず、「うちのパパとママは誰にもわからない神秘の言葉で話している」と言ったほどでした。たとえば、執筆の上で何か良いアイディアが浮かんだときなど、ハーンはセツに「あなた喜び下され、私今大変よきです」と言って子どものように喜んだそうです。
ハーンにとって、セツと「へるんさん言葉」を作っていくことは、異文化の壁を乗り越えられなかった母の沈黙を溶かしていくような、心あたたまる作業だったのかもしれません。一方、ハーンは日本語の読み書きの習得は比較的早いうちにあきらめ、日常的な通訳はセツに、日本語文献を参照する必要が生じれば友人に英訳してもらうことを選びました。それによる限界は当然あったと思われますが、書物よりも、実際に普通の日本人たちと交わることによって得た直観や知見が、ハーンの作品の魅力を作り上げているといえます。
ハーンは後に、セツに英語を教え、彼女も熱心に学びましたが、セツの妊娠・出産のために中断せざるをえませんでした。しかしセツが残した「英語覚え書き帳」には「ユオ・アーラ・デー・スエテーシタ・オメン・エン・デー・ホーラ・ワラーダ」(あなたは全世界で一番スウィートなかわいい女です)という文章が書き残されています。
一八九一年六月、二人は松江城の内堀に面した北堀町の家に引っ越しました。年間に建てられた古い趣のある家で、三つの庭があり、ハーンはこの庭での植物・動物観察から多くのヒントを得ています。池にいる蛇に、「あの蛙取らぬため、これを御馳走します」などと言って自分のお膳から食べものを分けてやったりしたそうです。
ハーンは松江をよく歩きました。全市にわたり、西田の案内で、また一人で散歩し、また日本海沿いの名所旧跡をよく旅して楽しみました。中でも、被差別部落のあった地域に入って、そこに伝わる伝統芸能「大黒舞(だいこくまい)」の歌詞を記録したことは、特筆すべきことがらです(もちろんハーンは日本語の聞き取りができないので、西田その他の人たちの協力を得てやったのですが)。ハーンが乗り出さなかったら、この貴重な芸能が後世に伝わることはなかったでしょう。
プロローグ さすらい人の二つの旅
ラフカディオ・ハーンから小泉八雲へ
「耳なし芳一」の物語
現代に生きる「耳なし芳一」
物語の力
八雲の二つの旅
第1章 パトリックからラフカディオへ
流転する子ども
母との別れ
幽霊に怯えて
パディの学校生活
何もかも失って
ロンドンどん底生活
第2章 辣腕記者ハーン
シンシナティの印刷屋にて
一八六九年という年
センセーショナル・レポーター
最初の結婚は失敗だった
逃げるようにニューオーリンズへ
クレオールとは何か
翻訳家から作家へ
さすらいへの憧れ
第3章 島から島へ
作家としてのスタート
文学上のコロンブス
二度目のマルティニーク
『ユーマ』とエキゾチシズム
再び、クレオール語について
ニューヨークに戻って
日本へ
第4章 松江の幸福
神々との出会い
横浜にて
恋と金欠病
出雲という偶然
松江に入る
出雲大社にて
よき教師ハーン
生徒との交流
セツとの出会い
松江が引き出したハーンの優しさ
「へるんさん言葉」で語り合う
松江との別れ
第5章 「振り子」の日々
軍都・熊本
熊本での教師生活
日本の曲がり角
行き来する「振り子」
十一人の小さな世界
ハーン、父親になる
『見知らぬ日本の面影』
停車場にて
日本に帰化する
神戸へ
門づけ
第6章 東洋でも西洋でもない夢
極東の将来
帝国大学での講義
語り部としてのセツ
再話文学の力
最高傑作・雪女
雪女と母ローザ
最後の著作『日本――一つの試論』
子どもたちへの思い
西洋でも東洋でもない夢
巻末エッセイ「むじな、または顔のない人」赤坂憲雄