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「ばけばけ」主人公のモデル、小泉セツと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の別れ

記事:春秋社

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 〈出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 https://www.ndl.go.jp/portrait/〉
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) 〈出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 https://www.ndl.go.jp/portrait/〉

 ラフカディオ・ハーン、小泉八雲は、一九〇四(明治三七)年九月二六日、午後八時すぎに、東京・西大久保の自宅で、夕食後、二度目の心臓発作に襲われ、「ママさん、先日の病気また参りました」と小さな声で妻セツに訴えて間もなく、あっけなく五四歳の生涯を閉じた。少しも苦痛がないかのように、口元に笑みをすら浮かべていたということである。このときのことを、セツは『思い出の記』の中につぎのように書いている。
 一九〇四年九月一九日午後三時頃、第一回目の心臓発作が起こった後で、ハーンは妻セツに言った。

 ……この痛みも、もう大きいの、参りますならば、多分私、死にましょう。そのあとで、私死にますとも、泣く、決していけません。小さい瓶買いましょう。三銭あるいは四銭位のです。私の骨入れるために。そして田舎の淋しい寺に埋めて下さい。悲しむ、私喜ぶないです。あなた、子供とカルタして遊んで下さい。如何に私それを喜ぶ、私死にましたの知らせ、要りません。もし人が尋ねましたならば、はあ、あれは先頃なくなりました。それでよいです。 小泉節子「思い出の記」(田部隆次『小泉八雲』北星堂書店、一九五五、一七二頁)

 そして二度目の心臓発作が起こったのは、同月の二六日、夕食の後のことである。

 夕食をたべました時には常よりも機嫌がよく、冗談など言いながら大笑いなどいたしました。「パパ、グッドパパ」「スウイト・チキン」と申し合って、子供等と別れていつものように書斎の廊下を散歩していましたが、小一時間ほどして私の側に淋しそうな顔して参りまして、小さい声で「ママさん、先日の病気また参りました」と申しました。私は一緒に参りました。暫くの間、胸に手を当てて、室内を歩いていましたが、そっと寝床に休むように勧めまして、静かに横にならせました。間もなく、もうこの世の人ではありませんでした。すこしも苦痛のないように、口のほとりに少し笑を含んでおりました。天命ならば致し方ありませんが、少し長く看病をしたりして、いよいよ駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけない死に方だと今も思われます。「思い出の記」一七六頁

 まさしく大往生であったといってよい。ハーンは、来日するまで戦争の経験はまったくなかった。しかしハーンが一八九〇(明治二三)年に来日し、松江から熊本に移り住んだ三年後、一八九四年八月一日には、日清戦争が始まった。この日清戦争の勝利によって、日本は欧米資本主義列強と並び、極東における帝国主義諸国との対立、葛藤に巻き込まれることになったのである。
 ハーンが亡くなったとき、今度はまた、日露戦争の真っ最中であった。日露戦争は、日本が初めて当面した本格的大戦争で、大勝利を収めた。そして日本が軍国主義・帝国主義へと進んでいくことになったのである。
 九月三十日、家族の手によって、市ヶ谷富久町の円融寺(通称・瘤寺)で仏式による葬儀が行われた。そのとき村上専精師――後の東大印度哲学科の教授――がハーンに「正覚院殿浄華八雲居士」という法名をつけた。
 葬儀の後、雑司ヶ谷共同墓地に埋葬され、当初は木標であったが、三回忌を機に石塔に改められ、今日に至っている。
 淋しい寺が好きであった最晩年のハーンを思い出しながら、妻のセツが如何にして瘤寺でハーンの葬式をし、雑司ヶ谷の共同墓地に葬ることになったかを次のように綴っている。

 落合橋を渡って新井の薬師の辺までよく一緒に散歩をしたことがあります。その度ごとに落合の火葬場の煙突を見て今に自分もあの煙突から煙になって出るのだと申しました。
  平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそヘルンの理想でございましょうが、そんなところも急には見つかりません。墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申しておりましたが、ついに瘤寺で葬式をして雑司ヶ谷の墓地に葬る事になりました。ヘルンは禅宗が気に入ったようでした。小泉家はもともと浄土宗ですから、伝通院がよかったかも知れませんが、何分当時は大分あれていましたので、そこへ参る気になりませんでした。お寺へ葬りましても墓地は直に移転になりますので、どうしても不安心でなりませんから割合に安心な共同墓地へ葬る事に致しました。青山の墓地は余りにぎやかなので、ヘルンは好みませんでした。
   雑司ヶ谷の共同墓地は場所も淋しく、景勝の地でもあるというので、それにする事に致しました。一体雑司ヶ谷はヘルンが好んで参りましたところでした。私によいところへ連れて行くと申しまして、子供と一緒に雑司ヶ谷へ連れて参ったことも事もございました。面影橋という橋の名はどうして出たかと聞かれた事もございました。鬼子母神の辺を散歩して、鳥の声が良いがどう思うかなどとたびたび申しました。関口から雑司ヶ谷にかけて、大層よいところだが、もう二十年も若ければこの山の上に、家をたてて住んで見たいが残念だ、などと申した事もございました。「思い出の記」一七六~一七七頁

 葬儀を行った瘤寺についても、セツは『思い出の記』の中につぎのように書いている。

 富久町にひき移りましたが、ここは庭はせまかったのですが、高台で見晴らしがよい家でございました。それに瘤寺という山寺のお隣であったのが気に入りました。昔は萩寺と申しまして萩がなかなかようございました。お寺は荒れていましたが、大きい杉が沢山ありまして淋しい静かなお寺でした。毎日朝と夕方は必ずこの寺へ散歩に出かけました。たびたび参りますので、その時のよい老僧とも懇意になり、いろいろ仏教のお話しなど致しまして喜んでいました。それで私も折々参りました。
  日本服で愉快そうに出かけていくのです。気に入ったお客などが見えますと、「面白いのお寺」というので瘤寺に案内いたしました。子供等もパパさんが見えないと、『瘤寺』という程でございました。
  よく散歩しながら申しました。「ママさん私この寺にすわる、むずかしいでしょうか」この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。「あなた、坊さんでないですから、むずかしいですね」「私坊さん、なんぼ、仕合わせですね。坊さんになるさえもよきです。」「あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです」「同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄、小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするので、よろこぶの生きるです」「あなた、ほかの世、坊さんと生まれて下さい」「ああ、私願うです」  「思い出の記」一五三頁

 このように瘤寺はハーンのお気に入りであったが、しかしあるとき大きな杉の木が三本切り倒されているのを見つけ、かれはそれ以来、瘤寺には行かなくなってしまったという。
 このような最晩年の、そして最期のハーンを見てくると、ハーンは如何に仏教に傾倒していたかが分かる。この文章はハーンが書いたのではないが、ハーンを最もよく知ってるはずの妻セツが書いているのであるから、美化されているかもしれないが、真実をよく伝えているのではないかと思われる。

(『ラフカディオ・ハーン』「第二部 ハーンと仏教」第八章「ハーンは仏教徒であったか?」 pp.208-212より転載)

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