民話「雪女」が各地に拡がったのは、ラフカディオ・ハーンの『怪談』からだった
記事:幻戯書房
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この本(『「雪女」、百年の伝承 辺見じゅん・木下順二・鈴木サツ・松谷みよ子・そしてハーン』)は、わたしがこれまでに書いた「雪女」に関する論文をまとめたものである。単行本にするにあたって、タイトルにあわせ、「雪女」の「百年の伝承」を見渡すように、全体の構成・論述を大幅に書き改めている。わたしの「雪女」論としては、これを決定版としたい。
一連の論文のはじまりは、ラフカディオ・ハーンの「雪女」がどのように誕生したのか、その材源の調査だった。ハーン(1850-1904)は、ギリシャ生まれのイギリス育ち、20歳のときアメリカに渡り、アメリカ南部のルポルタージュや仏領西インド諸島の紀行文によって作家として認められた。1890年に来日。島根県松江や熊本で英語教師をつとめ、知られざる日本を美しい英語で世界に紹介した。のち、小泉節子と結婚し小泉八雲と名乗り、日本国籍を取得。晩年は東京帝国大学で英文学を講義しながら、「怪談」の再話に没頭し、世を去る1904年にKwaidan (『怪談』)を出版した。ハーンの最高傑作のひとつといわれる「雪女」は、ここに収められている。その材源の調査の結果は意外なもので、「雪女」という物語は、実質的には日本の断片的口碑を利用しただけの、ハーンの創作であることがわかった。
民話「雪女」がハーンを淵源としているとわかれば、その流行の跡は追いやすい。もとにあるのは明治末に出版された一冊の英語書籍だから、たどるべき流れは数もかぎられており、またその間も、わずか百年ほどしかない。興味のおもむくままにその痕跡をたどっていくと、まず邦語訳の出版-山岳伝説への翻案-松谷みよ子による再話へと続く。この間の伝承は、活字から活字への伝承、つまり完全な机上の書承であって、表向きは口承民話のように装われながらも、実際にフィールドで採取されたものは一話もなかった。
しかし、ここから先、また不思議なことがおこる。おりからの民話ブームもあって、「雪女」は日本各地の士地の方言で民話として語られるようになるが、やがて遠野の有名な語り部・鈴木サツにひろわれ、昔語りとして、今では消えてしまった古い遠野方言で語られていたのである。その記録は音声で、そして後には、困難をきわめた翻字により、活字でも残されている。
この鈴木サツによるみごとな語りを聞いて、わたしは考えこんでしまった。わたしはそれまで、口承と書承を別の系統として、あるいは口承から書承へという「進化論」的な発展として民話の記録を考えていたが、現実には口承と書承の交代はもっと頻繁に、かつ複雑に入り乱れていた。この「雪女」の伝承論は、原拠からわずか百年の流行をたどっただけの"短期"の考証だが、それでも、これだけ意外な転成が生じていたのである。国字誕生から千年を超える歴史を振り返ったとき、どれほどの数の民話が口承と書承のあいだで生々流転を繰り返してきたのだろうか。
もうひとつ、この百年の「雪女」伝承論のなかで考えてみたかったのは、語り手たちの、語りたい、語らざるをえないという"語りへの欲求"である。創造への欲求、創作への欲望といいかえてもいいが、柳田民俗学がこの問題を回避しがちであるのに対して、「雪女」の伝承においては、再話の根本的な原因・動機として強く働いていた。それがなければ、そもそもハーンの「雪女」が誕生していなかったはずだし、松谷みよ子の童話「雪女」も生まれず、鈴木サツによる遠野の昔語りもなかったのである。
この芸術的創造性を民話の世界でいかんなく発揮したのが木下順二である。木下の戯曲『雪女』は、木下の創始した「民話劇」ではなく歌舞伎用の台本で、名優六代目中村歌右衛門たっての願いによるものであった。歌右衛門ほか豪華配役で上演され、それなりの評判をえたが、しかし木下自身は出来が気にいらず、全集・作品集はもちろん単行本にも収録しなかったので、熱心な歌舞伎ファン以外にはほとんど知られていない作品である。
木下順二はハーンと縁の深い人で、ハーンがかつて教鞭をとった熊本の五高(旧制第五高等学校)に学び、そこでハーンの長文の評伝まで書いている。木下が戦後、民話劇『夕鶴』をもってはなばなしく文壇にデビューし、その後、数十年におよぶ民話ブームをひきおこした背後には、少なからずハーンの影響があったようにも思えるのだが、戦後の木下は、なぜかほとんどハーンに言及しなくなってしまった。この謎めいた二人の関係を考えるために、わたしはまず木下の『夕鶴』とハーンの「雪女」の比較をした。つぎに、歌舞伎『雪女』の成立過程を調べ、ハーンの「雪女」が原拠としてどのように利用され、どう改変されたのかを指摘したうえで、歌舞伎『雪女』の成立とその後の「隠蔽」にはハーンヘの強い対抗意識がうかがえること、また、その批判と対立の関係において、ハーンの木下への影響を考えるべきだろうと結論した。
民話や伝説は、継承されるうちに短く縮むこともあれば、別系統の物語を取りこんで、長くなることもある。
辺見じゅんは、『男たちの大和』や『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』などで知られるノンフィクション作家であるが、民話作家としても重要な業績を残している。代表作『愛の民話』に描かれたのは、その多くが、日本の各地につたわる非業の死と弔われなかった怨霊たちの物語だった。その文学デビューから一貫して鎮魂と慰霊の語り手だった辺見は、民話の再話においても思い切った実験をしていた。それが富山の「十六人谷」伝説で、辺見はこの伝説の後半にこっそりと「雪女」を取り込んでいた。平凡な樹霊のたたり話を、人間の性愛の深淵がのぞく恐ろしい「怪談」に、作り変えたのである。これは「雪女」の民話化であると同時に、民話の「雪女」化でもあった。
民話「雪女」は、百年にわたる伝承のなかで、ハーンの原話がもつ「雪の女王」的性格や母性神的特徴が失われ、女神に誘惑・翻弄される男のマゾヒズムも消えて、狐女房や鶴女房のような温和な異類婚姻謡に近づいていくのだが、辺見じゅんは、当時の民話ブームの中心にいた松谷みよ子のこれ見よがしの童話化を拒み、また旧伝承にまとわりついていた通俗的な扇情表現も、きれいにぬぐい去った。辺見だけは、原話からハーンのロマンティシズムを自作に移植したのである。
これら日本化した民話からハーンの「雪女」を逆照射すると、ハーンの原作に隠されていた危険な性愛の側面が見えてくる。ハーンの「雪女」は、表面上、その母性の神話化が目立っているが、その内側には危険なラブ・ロマンスが潜んでいた。若く美しい「母」への禁忌的な愛情を、物語の内側に封じ込めること。子供を捨てる母親の悲しみを、その身勝手な冷酷さとともに、神話として語り直すこと。それが「雪女」という、言いようのない悲しさと美しさを堪えた物語の正体ではないかと、わたしは思った。ハーンの「怪談」は多かれ少なかれ、そうした自伝的告白の要素をもつものだが、この「雪女」についていえば、彼が長く胸底に秘めていた傷跡と愛情が、素直に、無防備に、語られているのではないか。雪女という異国の伝承の「仮面」をかぶることで、実世界のモラルから解放されて、心の内奥の声を素直に物語った作品なのだと思う。だからこそ、ハーンは、それがほぼ自身の創作であるにもかかわらず、「これは武蔵の国の調布という村の農夫から聞いた物語である」と、作品集の冒頭に断り書きを入れたのかもしれない。もともと、そうしたエキゾチックな韜晦こそが、Kwaidan という英語の書物の、そしてLafcadio Hearnという作家の生涯のスタンスであり戦略だったからである。