「忘れっぽい」にも実は大切な理由がある――『忘却の効用』で明かされる脳の意外な仕組み
記事:白揚社
記事:白揚社
普段、雑誌の記者として働いている私は自分の記憶力のなさを致命的な弱点だと感じている。例えば、1時間のインタビュー取材が終わった後にはもう、印象的な一部分しか記憶しておらず、そのほかの細部はすっかり頭から消えてしまっている。
だから、メモを何度も読み直し、それでも不確かな記憶は録音テープを再生して、やっと思い出すということになる。先輩記者や編集者の中には取材相手の言葉を一言一句記憶して再現できる強者さえいる。そう思うと自分の才能のなさに打ちのめされてばかり。
これは読書についても同じで、著者の主張の概要や、本当に面白かったごく一部は覚えているのに、その他の細部は読んだ翌朝には忘れているなんてこともしばしば。書評を書くには本当に不向きな脳だと実感している。
そんな私が本書『忘却の効用――「忘れること」で脳は何を得るのか』のタイトルに惹かれたのは当然のことだった。
期待を持って読み始めると、さっそく「忘却は単なる記憶の衰えだという一般的な見方を明らかに覆す」発見がなされたことや「忘却は認知機能にとって恵みなのだ」という魅力的な言説が展開されていく。
たとえば、動物に迷路を抜ける最短ルートを学ばせたうえで、迷路をわずかに変えた少しだけ異なる道順を学ばせるという実験もその一つ。効率の面では、新しい迷路を一から覚え直すより、一度覚えた迷路の記憶を修正するほうがよい。
しかし、記憶が良すぎる脳はわずかな変化があっただけでまったく違うものと認識してしまい、柔軟な学習に困難をきたしてしまう。そうならないために必要なのは記憶ではなく、忘却なのだという。神経精神科学教授の著者は、「変化し続ける環境に適応する柔軟性を得るためには記憶と釣り合いの取れた忘却が必要だ」と断言する。
さらに続く章では、心的外傷後ストレス障害(PTSD)や恐怖、ストレスなどの症状の改善にも忘却がその助けになることが、事例や実験結果を基にわかりやすく述べられる。そして、「木を見て森を見ず」に陥らずに物事の大局観を得たり、細部を切り捨てて抽象的思考を行ったりするという忘却の大切な機能への理解が深まっていった。
私の記憶力の悪さもマイナス要素だけではないのかもしれないと、最も勇気づけられたのは「認知的ヒューリスティクス」について書かれた章だった。
認知的ヒューリスティクスとは経験則や直感に基づいて素早く判断する思考方法のことで、我々の脳はこの〝直感〟を優先したがる。問題は、それが間違った判断になる場合が少なくないということだ。
この章に登場する著者の同僚医師は、記憶を貯蔵する皮質の機能は正常だったが、新しい記憶を司る海馬の機能が低く、「自分は他人より記憶力が悪い」と悩んでいた。しかし、この医師は自分が忘れやすいことを自覚しているため、自分の直感を信じられず、患者に診断を下す際に慎重を期していた。その結果、この医師の診断は、他のどの同僚医師よりも正確だったという。
最新の研究では、海馬の活性が高い人のほうがヒューリスティクスのバイアスを受けやすく、活性が低い人ほど早まった決断をすることが少ないのだという。
私もこの海馬の機能が低いことを自覚している医師に倣って、焦らず慎重に判断するようにすればいいのだと、本書を読んで自信を持つことができた。