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『北方領土を知るための63章』 謎多き地域の全体像とその実情を求めて

記事:明石書店

2019年9月13日 交流船「えとぴりか」から望む北方領土・国後島の夕景。左の山が爺爺岳
2019年9月13日 交流船「えとぴりか」から望む北方領土・国後島の夕景。左の山が爺爺岳

 午前中に北海道東端の根室港を交流船「えとぴりか」で出ると、夕暮れにはピラミッド状の山頂が突き出た北方領土の最高峰・爺爺(ちゃちゃ)岳の異様な山容が洋上に望まれる。そんな距離感にある北方領土だが、ウクライナ侵攻による日露関係の悪化などでビザなし訪問事業が2020年から中断され、日本の国民に閉ざされた状態が続く。本書はふたたび謎多き地域の性格を深めてきている北方領土の全体像とその実情に、さまざまな手法を駆使して迫ったものだ。

 伝説の「虚像」を排して

 もともと北方領土には、さまざまな「伝説」がまつわりついている。曰く、「レアメタルをはじめ貴重な鉱物資源が多く、ロシアが北方領土を日本に返そうとしない要因の一つとなっている。たとえば、択捉島には耐熱性が高く航空機のジェットエンジンなどに使うレニウムが大量に埋蔵されている」。曰く、「北方領土はロシアにとって軍事的に非常に重要な地域だ。だから、北方領土を日本に返した場合、日米が軍事施設を置くことをロシアは強く警戒する。北方領土問題の解決を妨げている主な要因である」、などがそうした「伝説」の典型だ。

 しかし、北方領土の地下資源について、ビザなし訪問事業の枠内で地震や火山活動に関する現地調査を長くロシア側の専門家と協力して手がけてきた北海道大学の高橋浩晃・地震火山研究観測センター教授は、第35章「自然、火山、資源」で次のような見解を明確に示している。「(択捉島)最東端にある茂世路岳(もよろだけ)の高温の噴気孔からは、希少金属として知られるレニウムの純粋な鉱物が世界で初めて発見された。しかし、資源量はごくわずかであり、商業化は困難である。(中略)北方領土では、商業ベースに乗るような大規模な地下資源は知られていない」

 また、北方領土の軍事的価値については、衛星写真などの豊富なデータを使ってロシアの軍事力を実証的に分析してきた東京大学の小泉悠・先端科学技術研究センター准教授が、第12章「北方領土の戦略的価値」で「軍事的価値はあるものの、その事実は必ずしも領土問題解決の核心的な阻害要因であるとは見做せない。というのがここでの結論である」と書いている。

 その根拠は、以下のように実に詳細かつ具体的である。「現在の極東ロシア軍には、海峡突破を図るために必要な海上・航空優勢の獲得と着上陸作戦を行う能力がそもそも欠如している。(中略)国後・択捉が引き渡されようとそうでなかろうと、ロシアが北太平洋で米海軍の接近阻止を図る余地はもとより小さい」。「北方領土はロシアの対米核攻撃能力を阻止するのに好適なロケーションにあるとは言えない。(中略)潜水艦発射弾道ミサイル(中略)のコースのずっと南に位置するに過ぎない」。「日本を拠点としてロシアの対米核攻撃能力を阻止しようとするなら、MD(ミサイル防衛)システムの配備地点は北方領土であっても北海道であってもほとんど変わりはない」

新しい視点の提供も

 

2024年9月3日 国後島の南クリル地対日戦勝式典に現れた地対艦ミサイル・システム「バル」、ゴミレフスキー地区長のテレグラムより
2024年9月3日 国後島の南クリル地対日戦勝式典に現れた地対艦ミサイル・システム「バル」、ゴミレフスキー地区長のテレグラムより

 そうした一方で小泉氏は第16章「北極海・オホーツク戦略との連携」で、地球温暖化によって「辺境と位置づけられてきた北極がユーラシアの東西をつなぐ大動脈となることが見込まれる」なか、国後島への地対艦ミサイル・システム「バル」の配備などプーチン政権による北方領土での近年の軍事力強化を、「北極海航路沿岸地域」がロシアの守るべき「新たな正面」になりつつあるという大きな構図の一環と捉える必要性も指摘している。

 以上は、北方領土にまつわる「伝説」を排し、読者に対して北方領土への新しい見方の提供を試みる本書の主な狙いを示す章のほんの2例である。ほかにも本書では、同様の問題意識から、日露間の北方領土返還交渉、ソ連占領後の統治、経済や開発など島の現状、現島民の対日観、四島の自然や地理・生態系、日本時代の生活や開発、歴史などさまざまな分野を取り上げている。戦後長らく北方四島の内情はベールに閉ざされ、情報は四島から引き揚げてきた日本人元島民の回想や記憶に多くを頼る時代が続いた。この状態はソ連崩壊後、約30年にわたるビザなし訪問事業を通じた住民間の交流、とりわけ多様な分野の研究者らによる共同研究・調査の積み重ねで大きく改善されてきていた。

 ところがコロナ禍に続くウクライナ侵攻の余波によるビザなし訪問事業の中断、ロシア当局による言論・メディア統制の強化などで、北方領土はふたたび情報閉鎖地域へと急速に逆戻りしつつある。それでも、30年にわたる交流の蓄積に加え、国後、択捉両島で発行される地元紙の継続的な閲覧、地元やサハリン州などから発信されるネット情報の調査などを通じて島の実態を探ることは可能になっている。こうした手法でそれぞれの専門家が集めた現時点で最も新しい情報、その分析に基づく知見を総合的に示すことを通じ、将来の北方領土をめぐる日露交渉の再開に備え、それを考えるための材料と新たな視点の提供も本書は目指している。

マクロな「北方世界」での位置づけ、文化・芸能の存在感

 さらに、これまでは地域を構成する四つの島の枠組みだけで捉えられがちだった北方領土だが、本州の東北部や北海道から千島列島、サハリン(樺太)からロシア極東、中国東北部、北太平洋、北極海というマクロな「北方世界」の中でこの地域を捉え直すことも本書は試みた。小泉氏の「北極海・オホーツク戦略との連携」はその典型例だ。また戦前、国後島を舞台にした映画に若き日の大女優・原節子が出演し、戦後も司馬遼太郎や吉村昭ら歴史小説の大家らの作品に描かれ、数々の歌謡曲に歌われるなど、北方領土が文化・芸能のうえでも大きな関心を集め、存在感を示し続けてきた地域であることの紹介にも努めた。広く世界の中の日本、極東・北西太平洋地域での日本の役割、「北方世界」の歴史と文化を考えてきた人たちをはじめ、多くの方々にぜひ本書を手にしていただきたい。

 

『菜の花の沖』の国後島。司馬遼太郎の世界だ。2021年6月、北海道標津町
『菜の花の沖』の国後島。司馬遼太郎の世界だ。2021年6月、北海道標津町

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