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第一人者が語りつくすSF少女マンガの歴史 ――長山靖生『SF少女マンガ全史』より【筑摩選書15周年フェア】

記事:筑摩書房

SF少女マンガの名作の魅力をSF評論の第一人者が語り尽す
SF少女マンガの名作の魅力をSF評論の第一人者が語り尽す

SF愛読者としての萩尾望都

 萩尾望都は卓越したマンガ家であるばかりでなく優れたSF小説家でもあるが、子どもの頃からSF指向があった。小学生時代に世界の名作の類と共に出始めたばかりの児童SFを読んでいたが、中学時代にアイザック・アシモフの「惑星SOS」(福島正実によるアシモフ『宇宙気流』のジュブナイル・ダイジェスト版。『中学三年コース』一九六六年五月号付録)を読んでSFを明確に意識するようになり、『S-Fマガジン』や<ハヤカワ・SF・シリーズ>でアシモフやフレドリック・ブラウンを読み始めた筋金入りで、SF読書は以降クラーク、ハインラインへと順調に伸びていった。その割にブラッドベリとの出会いはやや遅く二〇歳の頃に『10月はたそがれの国』からだったという。すぐに惹かれて次々と既刊本を読んでいった。一九七二年(二三歳頃)にはフィリップ・K・ディック、翌七三年にはアーシュラ・K・ル= グインにも出会った。「なるほど」と思い当たる読書歴で、それらが萩尾作品にどう影響したのか思いめぐらすのは楽しい。

 ちなみにSFを明確に意識したのは「惑星SOS」からだったものの、それ以前にもSFに親しんでいた。萩尾はアンケート「秋・私の本たち」(『週少コミ』七五年四五号)に答えて、小学生時代の愛読書として『マラコット深海』『失われた世界』(これらもSF味が濃い)と並んで『…?星(忘れた)からきた少年』を挙げている。このタイトルから連想されるのはパトリシア・ライトソンの『惑星からきた少年』だが、一九六五年なので時期的に合わない。ほかにハインライン『赤い惑星の少年』、ウォルハイム『土星へいく少年』、レイモンド・F・ジョーンズ『星雲からきた少年』などが連想される。これらは銀河書房の<少年少女科学小説選集>や講談社の<少年少女世界科学冒険全集>などで五〇年代から翻訳が出ている。一番タイトルが近い『星雲からきた少年』は、不時着した宇宙船から降りてきた異星の少年をめぐる緊迫のドラマだ。

『LaLa』一九七八年六月号<SFまんが大特集号>では、萩尾はアンケート<私の好きなSF・10選>に少女のための読書案内を意識しつつ、次の作品をあげている。

<1・銀河帝国の興亡(アシモフ)/スケールの大きさ、未来世界の描き方のリアリティが面白かったです。
 2・月は無慈悲な夜の女王(ハインライン)/コンピューターと人間とのかかわりあいがおもしろいです。
 3・天使と宇宙船(ブラウン)/軽く読めるコメディとしてお勧めできます。
 4・ウは宇宙船のウ(ブラッドベリ)/とりわけロマンチックな作品で、女子向きの代表的な短篇集です。
 5・黙示録3174年(ミラー)/第三次世界大戦後の社会をあつかった、なかなか宇宙的なお話でした。
 6・宇宙のウィリーズ(ラッセル)/とにかく笑えます。
 7・地球幼年期の終わり(クラーク)/説明不要の大傑作。
 8・地球の長い午後(オールディス)/想像力の限界に挑戦しているような壮大な地球末期図を描いた傑作。
 9・イシャーの武器店(ヴォークト)/不死人として出てくるスーパーマンが印象的でした。
 10・アルジャーノンに花束を(キイス)/優しい、心あたたまるお話です。>

 諸傾向に目配りの利いた幅広く正統派のSFファンらしいラインナップだが、なぜかル= グインやフィリップ・K・ディック、ゼラズニィはあげていない。好きな作家のはずだが、少女向けの入門編ということで敷居の高そうな作品は避けたのだろうか。当時のSFブームは『スター・ウォーズ』や『未知との遭遇』などのヴィジュアルに牽引されており、より内省的なSFへの関心がSFマニア以外にまで幅広く共有されるのは八〇年代、ディックを原作とした映画『ブレードランナー』(一九八二)やサイバーパンクのブーム以降になる。

少女マンガでSFマインドを発揮するための工夫

 SFファンである萩尾は、マンガ家となった当初からSFマンガを指向していたが、当時の少女マンガは読者の想定対象年齢がほぼ小学生と低く、難しい話は敬遠されて容易にOKが出なかった。描きたくても描けない鬱屈を、七〇年前後の萩尾はしばしば作品中にローマ字でラクガキ告白している。たとえば「クールキャット」(『なかよし』七〇年二月号)中のローマ字落書きには<SFが描きたいよ。民話も好きだよ(中略)ファンタジイも好きだよ>とあり、「精霊狩り」にも<おお遥かなる未来よ>とか<私はS・Fが好き…でも"女の子"にはS・Fが分からないのだというのです。ホントかしら…>とあり、当時の少女マンガ編集部のSF観が垣間見える。七〇年前後だと大人向けの一般文芸誌にもSFの掲載はまだまだ少なく、小中学生中心の少女マンガ誌での掲載に、編集者が二の足を踏むのも仕方なかったかもしれない。

 萩尾はSF的なものを少女マンガの枠内に紛れ込ませるべく努力した。「精霊狩り」は三人の精霊(若い魔女?)が出てくるコメディタッチの作品だが、その舞台は第三次世界大戦から一〇〇〇年後の世界であり、過去の歴史や文明のほとんどが失われ、神話と科学が区別なく共存しているという不思議な未来世界︙︙という設定だ。精霊たちはほとんど不死といえるほど長生きで、おそらくは戦後に出現したミュータントであり、また不死性と排斥において『ポーの一族』の原型という側面もあるかもしれない。

「精霊狩り」について、SF・ファンタジーに詳しい文芸評論家の小谷真理は<超能力者像をお茶目で愛らしい女性の姿として描き出している。彼女は旧弊で融通の利かない社会から逸脱するお転婆娘であり、その逸脱性が超能力者の問題と連動して、ユーモラスに描かれている>(「少女マンガにおけるSF性と性差混乱」、『<少女マンガ>ワンダーランド』所収、二〇一二)と、この時期すでにジェンダーへの意識が胚胎していた点に注目している。精霊ダーナ・ドンブンブンの積極性、大胆さは現代では何ら社会からの逸脱性を感じさせるものではないが(いや、超能力は今も逸脱だけれど)、当時にあっては超能力並みに「あり得ない」ことだったのかと指摘されてはじめて気づく。思えば五〇年も前の作品が、今読んでもまったく古びていないのは、驚くべき先取性だ。

 小学館の編集者で『別冊少女コミック』や『プチフラワー』などで萩尾を長く担当した山本順也は、萩尾に初めて会った当時の印象を、引っ込み思案と述べている。それでも「何が書きたいのか」を尋ねると、下を向きながら「SFが描きたい」と答えた。少女マンガ誌であり、山本自身もSFがよく分かっていなかったので、その願いはすぐには叶わなかった。それでも山本は、SFに詳しい外注スタッフに聞くなどして自身もSFの勉強をしていった。
 誰でもそうだが、デビュー当初から人気があるわけではなく、新人の希望は容易に聞き入れられない。それでも萩尾には初期からその作品に感心した手塚治虫や小松左京からエールがあり、それは編集者の耳にも届いていて、山本自身も「売れる」という確信があったという。
 小学館で『少女コミック』系から初のマンガ単行本を出すことになった際、萩尾望都の『ポーの一族』と上原きみ子の『ロリイの青春』が候補に挙がった。上原は人気の王道マンガ家で、雑誌でメインを張っていた。しかし選ばれたのは『ポーの一族』だった。社内には冒険的すぎると危ぶむ声もあったが、発売するとわずか三日で初版が売り切れてたちまち増刷となった。山本は「みんな待っていたんだ」と実感したという。時代が大きく動いた瞬間だった。

デビュー以前の幻のSF作品──「闇の中」「星とイモムシ」

 デビュー以前の高校時代、萩尾は地元の福岡で肉筆同人誌『キーロックス』に参加していたが、そこですでにSFを描いていた(ちなみにその仲間に講談社第六回新人漫画賞に「バーバラ・アン」で入選する平田真貴子がいた)。
 一般にも知られている当時の習作に「闇の中」と「星とイモムシ」がある。
「闇の中」は高校時代の作品で、未完ながらタイトルの印象通り暗く重い作品。ミュータントが迫害されている世界で、取り締まりの目を逃れて隠れ暮らすミュータントと、同情してかくまう人、そこに現れる取り締まり当局の追っ手たちなど、ナチス占領地でのユダヤ人狩りやレジスタンスを彷彿とさせる緊迫したドラマが展開する。白黒のフランス映画を連想させるその画面を見ていると「映画もマンガも白黒の方が緊張感が出るなあ」とつくづく思う。人物にも風景にもマンガ的誇張が少なく、それがいっそう渋い魅力を醸している。

 また萩尾はデビュー以前の一九六七年、未投稿ながら『COM』が原作を提示して募集したSF「星とイモムシ」に応募作を描いていた。ある日、口のきけない少年が森で一匹のイモムシを拾う。そのイモムシはなぜか少年と言葉を交わすことができるのだ。正確には言葉ではなくテレパシーで会話をするのだが、少年はイモムシにボビィという名前を付け、美しいチョウになれるように世話をしてやる。イモムシも自分は美しいチョウになりたいと願う。しかしイモムシはどんどん大きくなり、子犬ほどにもなったところで少年の手に負えなくなり、食べ物がたくさんある森へと戻してやる。しかしその後もイモムシは巨大化し、大人たちはこれを宇宙怪物として攻撃、殺してしまう。少年は嘆いて声を(言葉にはなりませんが)発する。イモムシは自分が宇宙から来たなどとは知らず、いつか美しい蝶々になれると信じたまま死んでいく……。
 この作品のお題では、最後に少年が口をきけるようになるはずだった。しかし萩尾はあえてそうはしなかった。彼女は「私は、頭がかたいもんで、さいごに少年が"ボビィ"とさけんだひょうしに声が出るようになるとすれば一応はおさまったけれど、ガンコにそうはしなかった。したがってこの題目は、『星とイモムシ』ではなく『一定時間内における少年とオバケイモムシの物語』とすればピッタリとなる」といった感想を、作品に添えて『COM』編集部に送るつもりだったという。

 ちなみにこの物語のコミカライズに入選したのは忠津陽子で、作品は『COM』六七年九月号に掲載された。忠津は同時期、「夏の日のコーラ」(『別冊マーガレット』六七年九月号)でメジャー・デビューしている。忠津はイモムシを、顔のある妖精のような、ディズニー・アニメ的表現(『不思議の国のアリス』を彷彿とさせる)にデフォルメしており、全体に児童マンガ的なかわいらしさがあって、それはそれで魅力的だが、私はやや劇画的なタッチで描かれた萩尾の習作に、より強く惹かれる。
「闇の中」「星とイモムシ」は『テレビランド増刊 イラストアルバム6 萩尾望都の世界』(徳間書店、一九七八)で読むことができる。

デビュー前に完成されていた物語技法と構図マジック──「妖精」「サムが死んでいた」

『文藝別冊 総特集 萩尾望都』(河出書房新社、二〇一〇)にもデビュー以前の作品「妖精」と「サムが死んでいた」が載っているので、今度は画法に注目しながら見ていきたい。
「妖精」は、絵を学んでいる(あるいはすでに若手画家である)青年エドを主人公とした物語。彼は今、壁にぶつかって苦悩している。母を(たぶん)亡くしており、母を描こうとして描けない。それでも挑戦は続けている。父はそんな彼を見守りながら、息子の絵に変化が表れているのを察する。
 青年は公園で若い女性ファニと会う。少し前からの知り合いらしく、といって待ち合わせではなく、樹の下で本を読んでいる彼女に話しかけるのだ。ちなみに彼女が読んでいたのは「大人のための童話」、サン= テグジュペリの『星の王子さま』だ。彼女は「あたしは︙ 童話や伝説 民話が好き」と語る。

 彼女は世界を全肯定しており、青年はそんな彼女に惹かれ、自分のあるがままのこの世界をおずおずと受け入れようとしている││そんな物語が一〇ページで描かれているのだが、この段階で既に萩尾の圧縮した表現、短いページの中で作品の背景にある深い世界の広がりを示す濃密な物語表現が取られていることに驚かされる。
 卓越した創作者と凡庸なそれを分けるのは、一文一コマに込められた圧倒的な情報量である。もちろんこの情報とは知識量という意味ではなく、ひとつひとつが主題と結びついているという意味での情報であり、あらゆる細部が生きているということだ。

 絵画表現も同様で、何気なく見える一コマにも、絵画的技法が凝らされている。たとえばエドの自室風景では、手前右側に大きく描かれた筆立てと中央で座っているエド、そして左側後方のドアを開けて戸口に立つ父という斜め一直線に並んだ配置は、やや強調した遠近法で描かれており、自然でありながら幾何学的緊張を感じさせる。それは青年の内奥の悩みやそれを気遣いながら踏み込み切れない父のためらいを読者に教える。
 また樹の下で本を読むファニと彼女に近づくエドを描いた一コマは、彼らや樹を上方から見下ろす大胆な構図で描かれる。映画から学んだ構図かと思うが、樹を上から見下ろすのは絵画的には表現が難しく、それまでのマンガでは見られないものだったのではないだろうか。
 こうした物語構成的にも絵画表現としても高度で斬新な方法を、まだデビュー前だったにもかかわらず、すでに萩尾は完成させていた。

 それにしても、世界を肯定するファニが踊るような身振りで<光が―― あふれて―― 空が―― こんなに……>と見上げる空が、しかし黒ベタで表現されている最後のコマは、何を意味するのだろう。それは濃い青の表現なのかもしれないが、彼女の言葉とは裏腹に、世界の不安と不穏を示しているのかもしれない。この一コマによって「妖精」は、一瞬にして芸術青年と文学少女の青春物語からセンス・オブ・ワンダーへと跳躍する。

 また「サムが死んでいた」は七ページの未完作品だが、エスパー物で<SCIENCE FICTION>と明記されており、作品冒頭で<E・S・P それは二四××年当時"犯罪者"の代名詞だったことの世界観が示されている。そしてこの作品でも暗闇で目を覚ました青年が「……透視が……きかないという料白からエスパーであることが、「月を出発してどれくらいたったんだろう/どうやらまだみつかってないらしい……」とあることから、彼が月からのロケットに密航していることが分かるという、最小の言葉での世界観示唆がみられる。

長山靖生『SF少女マンガ全史』(筑摩選書)
長山靖生『SF少女マンガ全史』(筑摩選書)

「筑摩選書創刊15周年フェア」

2025年10月下旬より全国の書店で順次開催中
2025年10月下旬より全国の書店で順次開催中

フェアラインアップ

●小坂井敏晶『社会心理学講義』
●田口茂『現象学という思考』
●中山元『フロイト入門』
●森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?』
●ジョエル・ベスト著 赤川学監訳『社会問題とは何か』
●鳥原学『教養としての写真全史』
●米田彰男『寅さんとイエス[改訂新版]』
●渡辺浩『日本思想史と現在』
●西尾幹二『日本と西欧の五〇〇年史』
●長山靖生『SF少女マンガ全史』

※開催書店によってフェアラインアップは異なります。

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