言語生物〈ヒト〉をめぐる博物誌 浜口稔著『ホモ・ロクエンス――言葉とメディアを介して事物世界を編む』
記事:明石書店
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ホモ・ロクエンスはラテン語で「話す・ヒト」を意味します。本書では、種に特有の言語機能を備えたホモ・サピエンスというニュアンスを持たせています。もう少し具体的には、直立二足歩行によって特異的に整った調音器官(舌、唇、歯、口腔、咽頭腔、喉頭と声帯、鼻腔、等々)が、この体勢とともに発達した大脳と神経解剖学的に連携して言語音のレパートリーを拡充し、言語生物〈ヒト〉として誕生したことを強調するものでもあります。
この体勢がもたらしたもう一つ重要な展開にも触れなくてはなりませんね。すなわち、直立二足歩行によって樹上生活者であった頃の四肢が「手」と「足」の名にふさわしい機能分化を遂げたことです。それにより人類は歩行専用になった「足」で大遠距離旅行(グレート・ジャーニー)を敢行して地球を隅々まで棲息域にし、枝掴みから解放されて自由になった「手」を他の身体部位とも連携させながら道具を作るホモ・ファーベル(=作る・ヒト)になって集落を作るなどして生存圏を加工し、共同体を定住型にし、ついには都市を構築するに至りました。本書の主題に関連させてさらに注目したいのは、その手と足が、眼や眉や口などで作る表情と組み合わされてジェスチャー言語、舞踊などの身体芸術、護身のための武術をも「作る」ようになり、全身を記号にして表現する存在になったことです。
続く章で、ホモ・ロクエンスの言語が特異な特性――二重性、恣意性、生産性、超越性、抽象化、否定、階層性、統語規則と再帰性――を備えていることに言及しています。わけても意味を担わない音素を組み合わせて(語彙などの)有意味な言語形式を作る「二重性」という特性は、言語を獲得する前の人類が意図して発明したものとは思われません。よく言及される「恣意性」は他の動物にも観察されていますが、人間の場合はそれがこの奇妙な「二重性」と組み合わされて現実世界の縛りを解き、人類言語を野放図で多様なものにし、事物の秩序(意味)から乖離した数多の精神的産物(あるいは民族文化)を地球の各地に生み落としました。もう一つ、物理世界に対する人類の覇権は、自然界の秩序に頓着しない言語の諸特性を操作して力に変えることで得たものでした。これには文字の発明が深く関与したのです。
言語を視覚化する文字が人類のもっとも輝かしい発明であることは他言を要しません。とりわけ表音文字であるアルファベットは、人類言語の音韻構造を抽出し、上記の諸特性を浮き彫りにするのに有効でした。一般に文字は意思を遠方に運び未来へ届ける媒体として時空をまたぎ、共同体の秩序を条文化によって維持し、思考を視覚化して入り組ませ、事物世界を読み解いて記録し、心理世界を編んで文化を生み続ける奇跡の媒体です。さらに文字は精密な図形と組み合わされて地図をもたらし、土地と人心を領有し世界史を駆動する仕掛けとして利用されるようになりました。同じことが紙媒体の本についても言えます。
文字と図形を紙に盛り込んで編んだものを本と言いますが、それを収蔵・管理する施設を日本語では図書館(文字どおり図・書を収蔵する施設!)と呼び慣わしています(欧米の library や bibliothèque の語源談義は本文にて!)。本書ではそれを受けて、図書館の源流として今に伝わる古代アレクサンドリア図書館の、人と物と知の流通の拠点としての意味について考察しました。高価な工芸品であった図書は王国の「物財」として権勢誇示の象徴となり、事物世界の探索記録としての「知財」ともなりましたが、着々と蓄積された物財・知財を管理し有効利用するための工夫が求められていました。そこで考案されたのが、カリマコスの文献目録(ピナケス)であり、今でいう書誌学の開始を告げるものなのです。
世界の多様な事物を整理する博物学者にとって不可欠な目録は、プリニウスやコンラート・ゲスナーによって形を整え、その後印刷術により激増した図書の管理のためには不可欠な方法となり、改めて収蔵スペースの問題に直面したガブリエル・ノーデによって近代図書館の革新が告げられました。万能の哲人G・W・ライプニッツも、図書館の近代化に取り組み、それを人間認識のモデルのように考え、実際に関与した図書館建築や造園において知的活性化の仕掛けを探っていたことは注目されていいでしょう。
このような知的活性化の仕掛けは図書館などの開発施設に限らず巷間の遊興施設において、つまり雑多な人と物と知(情報)が集まる渦中から生起するものです。17世紀の、いわゆる科学革命期の〈ロンドン王立協会〉の協会員たちは、いつもの集会場所とは別に、「コーヒーハウス」と呼ばれる街中の喫茶店のような場所に通いつめて〈協会〉での議論の続きをやり、来店客であれば誰もが傍聴できる「ペニーコレッジ」(一種のにわか格安セミナー)を自然発生させたと言います。ホモ・ロクエンスはその気になれば、どこにでも豊かな言語空間を生起させる興味深い例でありますね。
その〈王立協会〉の事務総長をしていたジョン・ウィルキンズが推進した「哲学言語」は万物の哲学的表記システム「事物記号」によって「事物世界の目録化」を目指すものでした。当時興隆しつつあった実験と観察と計測の科学は、事物世界の支配を機械・数学的に駆動する機関のようなニュアンスを帯び、その思潮のもとにあった哲学言語は「自然の驚異」から生み出された「人工の驚異」の一つでもあったのです。
20世紀になって古代学都アレクサンドリアの現代版とも言える〈ムンダネウム〉構想を繰り広げたポール・オトレの数々の着想にも、そのような驚異を感じ取ることができます。Googleが公式見解としてインターネットの真の先駆者だと認めたことで、忘却の淵に沈んでいた膨大な文書と図版が組織的に整理され、その全貌が解明されつつあります。メルヴィル・デューイの影響を受けた普遍十進分類法と独自の普遍書誌総覧は、ウィルキンズの事物記号(リアル・キャラクター)、ライプニッツの結合術(アルス・コンビナトリア)、カリマコスの文献目録(ピナケス)とともに興味深い系譜を辿ることができそうです。インターネットやコンピュータやスマートフォンの影も形もなかった時代の〈ムンダネウム〉構想は、同時期のH・G・ウェルズの〈世界脳(ワールド・ブレイン)〉と同じくグローバル・ネットワーク型の図書館/百科事典の構想でありました。地球人類的視点がリアルなものになりつつある時代でもあったのです。
今や地球文明を覆うIT環境のなかでDX化が推し進められ、インターネットの情報インフラの上に暮らすわたしたちは、スマートフォン、AI、ロボット、ドローンをはじめとする多くの機器が普及し、自身の生活の場のヴァーチャル化を実感させられつつあります。これらの機器をグローバル世界に見合うだけの使い方をしているか、わたしたちは心許なく感じてもいるのではないでしょうか。電話回線や「マイクロ・フォトグラフィ」しかなかった時代に構想力の限り独力で展開した二人の先駆者が、最新のIT機器を使いこなす人間の道を模索する指標となるかもしれないと、わたしは個人的に期待しています。
しかしながら、ほんの数十年のうちに突出したテック系企業がもたらしたデジタル世界への順応を迫られるにしても、わたしたち人間はやはり「寿命があり血や体液を通わせる骨肉の身体と感覚」を有する存在であることを、あるいは五感を全開し身体を駆使し、肉声を発し聞き分けながら言語を介して学習と経験を重ね、生存の知恵を語り継いでいた、何十万年の歳月に裏打ちされた存在であることを、絶えず想起したいものです。
そんなホモ・ロクエンスの経験を、言葉付きの展示物に注目しながら博物館のなかを回遊するときのわたしたちの学びと重ねることも、本書で主張しているところであります。仰ぎ観る姿勢をとりながら概観的な知識を得たり、配列に工夫を凝らした壁の展示物を正視したり、主題を軸に話題を区切ったフロアに配置された展示ケースのなかを前屈みになって詳細に学び取る来館者は、五感・身体を包む空間(コンテナ)と展示物(コンテンツ)にヒトが心を関与させることによって「メディア的効果」を生み出す存在であることを想起させられます。そして物理世界の事物を言葉経由で心理世界へと敷衍する、それがホモ・ロクエンスであることの意味でもあるのです。
ざっくりとではありますが、以上が著者自身による要約と感想です。本書の主題と各章の内容は公開されている目次からでも大方見当がつきますので、ご覧ください(よろしければ、本文も)。ちなみに、章立てを英語で table of contents と言いますが、それは各章の主題を軸に連関させた概略図、まさに文字を連ねたデザインのようなものです。その意味では、山田英春氏の表紙デザインが秀逸です。人間の横顔がいいですね。横顔の内側は青から黒へと幽かに色合いを移ろわせる天空のようであり、ホモ・ロクエンスの学びによって知の星辰が次々に宿ったかのごとくあります。すぐ横には世界地図が描かれ、人類発祥の地であるアフリカ大陸が黄色に目立っています。白地には大小の水玉が地図に重なるように広がり、ホモ・ロクエンスを特徴づける言語交流のソーシャル・グラフが張り巡らされているようにも思われます。勝手な想像です。いずれにせよ、著者とは別の視点からのアートフルな要約、ではないでしょうか。