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重田園江さん(明治大学教授)寄稿「金儲けの時代の彼方へ――ある数学者のとまどい」

記事:筑摩書房

どっぷり浸かって当然とされる金儲けの価値観から距離を置くにはどうしたらいいのか
どっぷり浸かって当然とされる金儲けの価値観から距離を置くにはどうしたらいいのか

金融工学と伊藤のレンマ

 数学者の伊藤清先生(1915-2008)は、「伊藤のレンマ(補題)」の考案者として知られる。これは積分に関わる公式の一種で、とても便利な数学的性質を持っている。たとえばブラウン運動のようなデタラメな分子の動きを予測する簡便な方法として、伊藤先生はこの公式を編み出した。

 ところがこの公式は、あろうことか金融工学にとって有望な理論として利用されることになった。株でも仮想通貨でもいいのだが、価格が乱高下する相場において、金融工学を用いて確実に利益を得るためにこの公式が使われ出したのだ。

 とりわけ瞬時に莫大な取引が可能なデジタル化された金融市場では、一瞬の価格差を突いた取引が必要になる(もちろん私にとってはこんなことは必要ないが、金儲けのための金儲けに勤しむディーラーたちにとっては大切なのだ)。

 伊藤のレンマを用いた有名な金融工学モデルが、ブラック=ショールズモデルである。ショールズはこの業績でノーベル経済学賞を受賞した(ブラックはすでに死去していたので受賞できなかった)。

悪魔の数学

 伊藤先生は、金融工学という恐ろしい金儲けの世界に、予想もしないやり方で自分の式が用いられたことにかなり当惑しておられたらしい。ニコラス・ダンバー『LTCM伝説――ヘッジファンドの栄光と挫折』(寺澤芳男監訳、東洋経済新報社、2001)には次のように書かれている。

伊藤の定理と呼ばれるこの悪魔払いの数学は、1951年に伊藤清が考案した。伊藤は自称純粋数学者で、自分の研究を現実世界に応用するのには無関心であった。後年、経済学への貢献を祝う会議に出席した際、あまりの騒ぎに困惑して、そもそもそんな定理を導いた記憶はないと言い張ったほどである。(42ページ)

 この文章にはいくつか誤りがある。

 まず伊藤の定理が悪魔払いなのではなく、それを利用した人たちがこれを「悪魔の数学」にしたのだ。

 次に伊藤先生は自称純粋数学者ではなく、誰もが認める純粋数学者である。

 三番目に、自分の研究を現実世界に応用するのに無関心だったのではなく、歴史的に見て科学(主に物理学)の命題が数学を発展させてきたことをくり返し強調していた。

 いずれにせよこのエピソードは有名で、伊藤先生の困惑も本当のことのようだ。Wikipedia「伊藤清」の項目にも書いてある。

 『確率論と私』(岩波現代文庫、2019)所収の京都賞受賞記念講演では、お金のことに興味がない自分が、このような金儲け理論の確立に貢献したことへの戸惑いを率直に表明されている。伊藤先生は自身を

株やデリバティヴは愚か、銀行預金も定期預金は面倒なので、普通預金しか利用したことがない「非金融国民」(139ページ)

 と形容している。

 私はこの話にすっかり感動してしまった。学者というのはそういうものなんじゃないか。私だって普通預金しか使ったことがない。世界に誇る数学者、伊藤清と同じだ。それ以外にこの天才と何の共通点もないのは残念だが。

 その伊藤先生は、投資とマネーゲームの世界でくり広げられる「経済戦争」に数学者が動員され、数学が金儲けに利用されてしまうことを嘆いて、次のように述べている。 

私は、如何なる時代の、如何なる名のもとに行われる戦争にも反対したいと思っておりますが、ここで「経済戦争」にも反対したいことを付け加えたいと思います。といっても、経済の何たるかが解りませんので、ホモ・ロクエンス〔ことばを持つ生き物(引用者)〕の友である広辞苑で、「経済」の項を読んでみました。①国を治めて人民を救うこと。②人間の共同生活の基礎をなす物質的財貨の生産・分配・消費の行為・過程、並びにそれを通じて形成される人と人との社会関係の総体。と書いてあります。「経済」の意味がこのように総合的なものである以上、「経済」の一部である「金融」から、更に派生したに過ぎない商品や、そのディーラーの名のもとに行われる戦争を一刻も早く終わらせて、有為の若者たちを故郷の数学教室に帰していただきたいと思うのは妄想でしょうか。……
 人はみな、絶え間ない偶然に支配されつつ、時間の中を歩んでいますが、その歩み方の拠り所となるのは、その人自身の価値観です。(142ページ)

みんな小さな投資家なのか

 ここで伊藤先生は、経済学が本来の意味に立ち返ると同時に、数学に知的喜びを感じる人たちをカネ勘定から解放するよう呼びかけている。

 金儲けに価値を置かず、学者は知的な歓びをひたすら追求すべきという考えは古臭く、まるでアダム・スミスの「徳の道」みたいな話かもしれない。でもそれこそが、誰でも彼でも自己利益の主体であることが堂々と肯定されている現代に、最も重要な「徳」の一つではないだろうか。

 これに対して、ベンジャミン・フランクリンにおけるような、「富のための徳」とはなんたる欺瞞だろう。富が徳を侵食することを、ルネサンスから近代の共和主義者たちは「腐敗corruption」と表現した。人も、政治も、富と権力への執着が過ぎることで腐敗してしまう。腐って滅びるべき肉体から離れられない有限性に囚われた私たちは、せめて生き方としては精神の腐敗に抗うべきではないだろうか。

 現在では、数学の徒が伊藤先生の時代以上にカネ勘定に動員されているだけではない。私たちは、生産性が向上し社会的富が増大しても賃金の増えない時代を生きている。そのなかで、

労働者たちは資本主義の断片を購入するよう奨励されるようになった(デヴィッド・グレーバー『負債論――貨幣と暴力の5000年』酒井隆史監訳、以文社、2016、555ページ)

 つまり、先が見えないこの時代、誰もが小さな投資家となり、ちょっとした金利生活者を目指すべきだということだ。

 そのためには小学生から投資について教えた方がいいという意見に表立った反対はない。そのうち学校で「金もうけ」や「投資のしかた」が正規科目になるかもしれない。どうやらそうした価値観に違和感を抱くのは、ただの損してる人、怠惰な負け組だけのようだ。ここには見事なほどに、生を「損得」でのみ語る発想、「怠惰」と「勤勉」、「勝ち」「負け」といった用語法が染みわたっている。

『ホモ・エコノミクス――「利己的人間」の思想史』(ちくま新書)書影
『ホモ・エコノミクス――「利己的人間」の思想史』(ちくま新書)書影

 こういう時代を思い切って遠くから眺め、どっぷり浸かって当然の金儲けの価値観から距離を置くにはどうしたらいいのか。近著『ホモ・エコノミクス――「利己的人間」の思想史』では、富が疑念を持って見られていた時代から説き起こし、「経済人」への違和感の正体を探っている。

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