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『彷徨 あなたが選ぶ赤い靴の冒険』のなかを彷徨う 翻訳家・太田りべか(後編)

記事:春秋社

『彷徨』では「あなた」が主人公となって、世界中の都市を旅する
『彷徨』では「あなた」が主人公となって、世界中の都市を旅する

(前編から続く)

フェミニズムと赤い靴をはいた女たち

 そんなあなたが、さまざまな人のさまざまな物語を拾い上げながら旅を続ける。異なるバックグラウンドを持つ人、ときには異なる時代を生きた人の物語と、あなたの物語が交差する。そこでは否応なしに多様性を意識することになる。でも多様性とは、ディズニーランドのアトラクション “It’s a Small World”のように世界各国の人形を集めて色とりどりに陳列することではない。多様性とは、「互いの違いを認め、文化の衝突を認める」ことだ。そうやって互いに違いを認め合うことによって、人と人とのつながりが生まれる。

 インタン・パラマディタはフェミニストとしても精力的に活動しており、インドネシアのフェミニスト・コレクティブ「女性の思想学校」の主宰者のひとりでもある。そこで展開されるのは、島を越え、国境を越え、ジェンダーを越えて、人と人とのつながりを構築していこうとする動きだ。そういう草の根の連帯と協働を通して、植民地主義や資本主義や家父長制の名のもとに他を支配しようとする者たちに都合のよいように作り上げられてきた「あたりまえ」が、ほんとうはあたりまえではないことに気づこうとする動きなのだと思う。

 2025年8月下旬、ジャカルタをはじめとする都市を中心に、インドネシアの各地がデモと暴動で荒れた。それが終息し始めた9月初頭に、インドネシアのSNSのインフルエンサーや著名人たちが中心となって、政府に対する「17+8国民の要求」を発表、SNSアカウントのアイコンなどに青とピンクと緑というシンボルカラーを使用して国民に連帯を呼びかけた。青は抵抗、ピンクは優しさと勇気、緑は犠牲者への哀悼と共感、そして不公平に抵抗する姿勢を象徴している。インタン・パラマディタたちのフェミニスト・コレクティブ「女性の思想学校」も、そのピンクを背景色として声明を発表し、軍隊を後ろ盾とする暴力と脅迫によって国民の抗議の声を抑え込もうとする政府を強く批判した。私たちが求める安全は、軍事力と情報統制で防御された偽りの安全ではない、植民地支配やインドネシア独立後の軍事政権によって使い古されてきたパターナリズム的理屈に基づいて、国民をバカで導いてやらねばならない存在として貶めようとする現政権のやり方を断固拒否する、と「女性の思想学校」は強調する。インドネシアでは、現政権の発足以来、国軍の政治・経済方面にまで及ぶ勢力拡大への布石が着々と打たれてきた。今回のデモ・暴動事件で国民の非難が警察に集中したのに乗じて、さらにそれを推し進めようとする現政権に対して、「女性の思想学校」は強い懸念を示したのだが、それはインドネシア国内の問題にとどまらず、今、世界の各地で力によって他を支配しようとしている者たちすべてに対して向けられた怒りの声だ。

 支配とは、支配しようとする者が支配される側とみなした相手の自由や選択肢を奪うかまたは制限し、相手の望むものごとを否定・拒否・無視することだ。そうすることによって、支配しようとする者は自分が相手より優位にあること、自分なしでは相手の安全は保障されず、生存すら危ぶまれるようになることを思い知らせようとする。それが一般家庭の夫婦関係、親子関係から国家レベル、さらに世界の国家間の関係にまで共通する構図なのではないか。しかもたちの悪いことに、支配しようとする者は、そういったことすべてが善意からくるものであり、バカな相手を教え導き、相手のためになるようになされるべきだと信じている、あるいは信じているふりをする。

 支配しようとする者は、当然支配される者を必要とする。肉体的にも政治的にも経済的にも、力の強いものは自分よりも弱いものを傷めつけることによって、支配しているという実感を得ようとする。そうして弱いものは虐殺され、飢餓にさらされ、虐待され、性的暴行を受け、暴言を吐かれ、理不尽な立場に立たされ、貶められ、面識もない相手につけまわされたあげくにエレベーターの中でいきなり刺し殺されたりする。そういったなにもかもに対して、あたりまえだと捉えてはいけない、仕方のないことだと思ってはいけない、支配しようとする者が自らを正当化するのを許してはいけないと、フェミニズムは主張する。その世界観を支えるのは、支配・被支配という縦の関係ではなく、あらゆる境を超えていこうとする人と人との横のつながりだ。

 これまであたりまえだとされてきたことを、あたりまえだと思ってはいけない。それはほんとうにあたりまえのことなのか。ただあたりまえだと思わされてきただけではないのか。そういう疑いの種が、『彷徨』で描かれるごく普通の人と人とのつながりから生まれるいくつもの物語のなかに、ばら撒かれている。

 良い女の子は天国行き、悪い女の子は彷徨する。ある道筋を通ると、あなたは決して降りることのない女たちを乗せた列車に乗ることになってしまう。そこにはアメリア・イヤハートもジョセフィン・ベーカーもいる。「セントラルはセントラルでセントラルよ」と言う車掌ガートルードは、もちろん “A rose is a rose is a rose is a rose”のガートルード・スタインだ。意識的にであれ無意識的にであれ相手を支配することが正義だとするすべてに対して、そういう理屈の上に成り立ってきた、あるいは成り立たせようとされているすべてに対して、そういった世にはびこる「あたりまえ」に対してノーを突きつけ、赤い靴をはいて彷徨い続ける女たちを乗せて、列車は疾走する。そこに乗り込んでしまうのは、はたして不運なことなのだろうか?

参考サイト
国際交流基金 トークセッション「文学におけるジェンダー、文化、政治の交差するところ」採録記事
Sekolah Pemikiran Perempuan(女性の思想学校) “Pernyataan Sekolah Pemikiran Perempuan tentang Represi Negara terhadap Kemerdekaan Rakyat Sipil” 
8月暴動をどうみるか(松井和久)

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