「憲法十七条」は民主主義を説いているのか――聖徳太子「憲法十七条」を読みなおす(上)
記事:春秋社
記事:春秋社
高市早苗首相は、10月24日におこなった初の所信表明演説をしめくくるにあたり、「憲法十七条」末尾の第十七条の言葉、「事は独り断むべからず。必ず衆と与に宜しく論ふべし」を引いた。そして、我が国では衆議が重視されてきたのであって、政治は独断でなく、共に語り、共に悩み、共に決める営みだと強調した。
これを報道した「産経新聞」は、日本の民主主義は戦後にアメリカから与えられたように考えている人が多いが、日本の民主主義は古くからのものであり、首相の演説からは、広く国民の声を聴く「日本型民主主義」復活への意志を強く感じたと述べていた。
この記事は、2018年10月29日の衆議院本会議で、自民党筆頭副幹事長だった稲田朋美議員が、日本は多様な意見の尊重と徹底した議論による決定を昔から尊重しており、民主主義は戦後になって連合国から教えられたものではなく、「五箇条の御誓文」や聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の言葉が示すように、我が国の古くからの伝統だと主張したのと同じ路線だ。
しかし、稲田発言には多くの批判が寄せられたように、「憲法十七条」は民主主義ではない。『「憲法十七条」を読みなおす』の第五条の解説で説明しておいたように、「憲法十七条」では、民は思いやって保護してやるべき存在に留まる。つまり、愛民主義ではあるものの、民衆が政治を動かす主体となる民主主義ではないのだ。
稲田発言については、「憲法十七条」は天の神の子孫として日本を統治するとされていた天皇の命令を絶対とするものだ、といった反論がなされたが、これも間違っている。「憲法十七条」は律令制定以前に作成されたため、「天皇」の語を用いず、「王」と言っていたうえ、「神」にはまったく触れていない。つまり、仏教第一主義なのであり、天孫降臨神話を天皇の権威の源とするのは『日本書紀』編纂が始まってからのことだ。
「憲法十七条」は儒教の書物の引用が多いと言われているが、重要な第十四条の嫉妬禁止の部分では、在家向けの大乗経典である『優婆塞戒経』を利用している。同経のこの箇所は、在家の菩薩が「大国主」となった際に行うべき訓戒を列挙した部分であるため、「憲法十七条」は在家菩薩である推古天皇による訓戒という性格を持っていることが、今回初めて知られた。「憲法十七条」作成の2年後に、国王夫人であって在家菩薩である勝鬘夫人が説法する『勝鬘経』の講経がなされたのは偶然ではない。
ただ、推古朝前後は、有力な氏族の長たちが合議し、そこで王の後継者を決めていた。戦争するかどうか、仏教を受け入れるかどうかなどもそこで議論された。王は最終的な決断を下すことができたが、国政に関する重要事項は、氏族の長たちの合議で方向が定められたのだ。
特に、王の後継者決定は、王の没後に討議されたため、前の王は意見を述べる立場になかった。仏教尊重を説く第二条や、王の命令に従うよう命じる第三条より、「和」して話しあえと説く第一条が先に置かれているのは、この合議をなごやかに進め、紛争が起きないようにするためにほかならない。その「なごやか」さをもたらす役割が仏教に期待されたのだ。
そもそも、「憲法十七条」の第一条が「和」して話しあえと命じている相手は、国政を決める合議に参加する有力氏族の長たちや、新たに設けられた部局に勤務する役人たちであって、民衆ではない。
また、第一条の「以和為貴」という言葉は、中国の儒教の『礼記』に基づくが、この「和」は、様々な楽器の異なる音が美しく調和することを意味していた。儒教の「礼」は上下の関わり方を規定するものであり、それを強調しすぎると上下の対立が生じるため、異なる音が調和する音楽の「和」が、対立を和らげる手段として重視されたのだ。儒教教育の柱が「礼」と「楽」であるのは、このためだ。
そのうえ、「和」が聖徳太子の思想の根本とされ、日本の伝統とされるようになったのは、諸国との対立によってナショナリズムが強まった昭和初期あたりからだ。そのイメージを決定づけたのは、昭和12年(1937)に文部省が作成させて全国の学校に配布した『国体の本義』だろう。聖徳太子は、長らく尊崇されてきたが、それは観音菩薩の化身などという形であって、「和」を説いた偉大な思想家とする見方は近代になって成立したものにすぎない。
しかも、「憲法十七条」の「和」は、異なりを前提とする儒教の「和」と違い、全員一致を意味していた。「あいつは和を乱す」などといった言い方がなされるのはこのためだ。確かに、討議での感情的な争いは避けたいものだが、こうした形の「和」の強調は、一つの立場の押しつけにつながりかねない。
安倍晋三元首相を代表とする歴史に弱い最近の自民党議員と違い、大平正芳元首相などと同様、読書家として知られた宮澤喜一元首相は、2004年2月号の『中央公論』でのインタビューでは、イラク紛争への対処などをめぐる論議をふまえ、「私は日本人はいったん『和を以て貴しとなす』の精神を捨てるべきだと思います」と述べていた。これは、国定教科書を学んで意見の均質化をしていた戦前の一致団結主義が、戦後はマスコミに流される無個性な人間の量産に変わっただけ、という危機感に基づく発言だ。
いずれにしても、重要なのは、「憲法十七条」が正しく理解されてこなかったことだ。この点は、聖徳太子そのものについても同様だ。文部科学省が、歴史教科書の新指導要領案で、「厩戸王」の名を前面に出そうとした際、自民党の議員たちが、伝統をそこなうとして国会の委員会で反対したが、伝統保持を説くその議員たちも、また彼らにレクチャーした「新しい歴史教科書をつくる会」の理事も、「厩戸王」という名は古代・中世の文献にはまったく出てこないことを知らなかったのだ。
この名は、聖徳太子の従来のイメージに縛られずに客観的に研究しようとした広島大学の小倉豊文が、生前の名で呼ぼうとして戦後になって推測したものの、論証できずに終わった名だ。古代にあっては、複数の名が用いられていたが、本名とみなされていたのは、おそらく「豊聡耳」、公的な名は「上宮王」だったろう。