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「ノストローモ(我々の友)」という問い――「我々」のことばに訳されたコンラッド

記事:幻戯書房

ジョウゼフ・コンラッドは英文学の作家にしてポーランドの作家でもある。現ウクライナ北部のベルディチェフ(ベルディチウ)でポーランドの地主貴族の一人息子として生まれたコンラッドは、ウクライナ侵攻を見守る「我々」にとって、コスモポリタンの作家として同時代人であり続ける。
ジョウゼフ・コンラッドは英文学の作家にしてポーランドの作家でもある。現ウクライナ北部のベルディチェフ(ベルディチウ)でポーランドの地主貴族の一人息子として生まれたコンラッドは、ウクライナ侵攻を見守る「我々」にとって、コスモポリタンの作家として同時代人であり続ける。

はじまりとしての「駄作」

 海外渡航が難しくなってもう数年が経った。コロナ禍以前は学会発表のために毎年のように渡航していたが、あれは夢だったのかという気がする。ふりかえれば最初に学会で発表しようと思ったのは、以前の学長が教員に海外進出をさかんに奨励し始めた時期だった。海外留学の経験もなく、国内だろうと海外だろうと進んで旅に出るタイプではなかった私がよく出ていく気になったなと思うが、ちょうど考えていたことがあって発表の場を探しているところだった。

 そのころは『闇の奥』などのいわゆる「傑作」群から離れて、「駄作」と見なされてきた晩年の作品ばかり読んでいた。理由はいろいろあるのだけれども、一番はやはり、人間心理の闇の奥を探る作品と、アクションとメロドラマに彩られた作品を「傑作」と「駄作」にふり分ける(欧米で確立された)基準にのっかかれないと単純に感じていたからだと思う。現在は以前よりコンラッドの小説を「ヨーロッパ文学」や「世界文学」として読もうとする風潮は定着している。しかしそれでも一般読者、研究者を問わず多くの人にとってコンラッドはまだコスモポリタンというよりは「英国商船隊の船乗り」だろう。この世界が「二、三の極めて単純な概念(忠誠[fidelity]のこと)の上に成り立っている」(『個人的記録』)という信念を固守する素朴な「船乗り」のイメージは、もしかしたら今のヨーロッパ大陸の思想家たちとも響きあうような革新的な「思想家」かもしれないコンラッドの一面をいっそう見えにくくしているのではないか。The Rover(1923)やSuspense(1925)などの晩年のナポレオン小説がもっと読まれていればこうしたイメージも少しは変わり、新しい解釈も増えるかもしれない――そう考えていた。拙著Rethinking Joseph Conrad’ s Concepts of Community: Strange Fraternity(Bloomsbury, 2017)では、小説が描くとされてきた「個人」ではなく、同質な「個人」が有機的に結びついた伝統的な共同体でもなく、複数の存在が目的も理由もないまま一時的に同じ場所にいるだけの「奇妙な友愛」という観点からコンラッドの主に後期以降の作品を再考した。

コンラッドの「奇妙な友愛」をデリダ等のヨーロッパ大陸の思想家の共同体概念で読み直した著書、Rethinking Joseph Conrad’ s Concepts of Community: Strange Fraternity(Bloomsbury, 2017)。
コンラッドの「奇妙な友愛」をデリダ等のヨーロッパ大陸の思想家の共同体概念で読み直した著書、Rethinking Joseph Conrad’ s Concepts of Community: Strange Fraternity(Bloomsbury, 2017)。

 以前のように渡航できない今この本を手に取ると、海外のいろいろな場所で発表したときの記憶が鮮明によみがえる。そしてなによりも、この本に考えをまとめる機会がなかったら、先行する日本語訳のないThe Roverの翻訳に手を出そうなどとは思わなかったにちがいない。『放浪者 あるいは海賊ペロル』(〈ルリユール叢書〉幻戯書房)も、海外で過ごした時間が夢や幻でなかったことを確認させてくれる一冊となった。

『放浪者 あるいは海賊ペロル』翻訳の際に使用したデント版The Rover(右)と、オックスフォード版The Rover(左)の書影。オックスフォード版はデント版のテクストを使用している。
『放浪者 あるいは海賊ペロル』翻訳の際に使用したデント版The Rover(右)と、オックスフォード版The Rover(左)の書影。オックスフォード版はデント版のテクストを使用している。

本邦初訳の、ナポレオン戦争期の南仏・地中海を描いたコンラッド晩年の歴史小説『放浪者  あるいは海賊ペロル』(ルリユール叢書)書影。
本邦初訳の、ナポレオン戦争期の南仏・地中海を描いたコンラッド晩年の歴史小説『放浪者 あるいは海賊ペロル』(ルリユール叢書)書影。

コンラッドは誰の仲間か

 コンラッドのナポレオン小説を読む私がイメージする彼は、『闇の奥』の語り手兼登場人物であるマーロウのような英国人の堅実な船乗りというよりは、軽率で軽薄な、女たらしのフランス人に限りなく近い。こういったとらえ方は依然として多数派ではないことはわかっているし、多数派に取って代わることは私の究極の目的ではない。問題にしているのは何が「コンラッドらしさ」なのか、あるいは小説をどういうものとして考えるのかということで、コンラッド文学をどの範疇に入れて考えるか、ということである。それによってコンラッドの解釈や評価は大きく変わる。これまでいろいろな「我々」がコンラッドを自分たちの「仲間(one of us)」だと主張してきた。ほとんどの英国のコンラッド研究者にとって彼は「英文学」の伝統を受け継ぐ作家だが、ポーランドの研究者にとってはアダム・ミツキェーヴィチのような国民的詩人ではないとしても「ポーランドの」作家だ。そして、コンラッドの生誕地ウクライナの読者にとっても彼は、ソ連邦時代政府が作成した英文学の正典(必読書)から外されていた期間を経てなお「同胞」であり続けた( Ludmilla Voitkovska, ‘On Conrad’s Birthplace’, The Conradian 45.1 (Spring 2020), 91.)。

予言者コンラッド?

 コンラッドは1857年に現ウクライナ北部にある、首都キーウから列車で二時間ほど離れた歴史的な都市で地主貴族の家に生まれたポーランド人である。この事実によってコンラッドは、終わりそうにない軍事侵攻を目撃する「我々」の同時代人として再び注目を集めていくのだろう。これまでもたとえば『シークレット・エージェント』で爆破テロの時代を、『ノストローモ』ではグローバリズムの台頭を「予告」したコンラッドの文学の同時代性がとくに欧米では言われてきた。しかし、たとえばH・G・ウェルズのような「来たるべき時代を書き記す歴史家」(『シークレット・エージェント』献辞)とはちがって、コンラッドはむしろ「今、ここ」の現実に囚われた作家だった。連日報道されているロシア兵の野蛮で残虐な行為と役人たちの「真実に対する根深い、崇高なまでの蔑視」(『西欧の眼の下に』)は、コンラッドにとって自らがそのなかに生れ落ち、そのなかを生きていかねばならなかった「現実」そのものだった。そしてそれは、おそらく一生彼のなかで「過去」にはならなかった。

 『西欧の眼の下に』の冒頭には政治家の暗殺が「現代ロシアの実情を如実に表明する」事件として書き込まれている。英国人の語り手は、「神聖なる民主主義」体制のもとで自由に生きる「西欧の読者」にロシアは理解できないと何度も繰り返す。彼のこのことばは反復されるうちに次第に意味を失って空疎に響くのだが、同じことを、二月末の侵攻後間もない時期に開催されたオンラインの学会であるポーランドの研究者が疲れた表情でぽつりと口にするのを聞いたとき、そのことばが指す以上の、なにかとうてい「極東」の国の読者には理解できそうもない(もしかしたらウクライナとポーランドの関係をも含む)複雑な事情がそこにあるような気がして、質問したかったけれどもできなかった。

「ノストローモ」(我々の友)とはだれなのか

『ノストローモ』の翻訳の際使用しているエヴリマン版書影。カバーは、メキシコの画家フリーダ・カーロ(1907-54)の夫ディエゴ・リベラ(1886-1957)作《メキシコの歴史》の一部。編者セドリック・ワッツは長年コンラッド研究に貢献した英国の研究者。2022年5月に亡くなったばかり。
『ノストローモ』の翻訳の際使用しているエヴリマン版書影。カバーは、メキシコの画家フリーダ・カーロ(1907-54)の夫ディエゴ・リベラ(1886-1957)作《メキシコの歴史》の一部。編者セドリック・ワッツは長年コンラッド研究に貢献した英国の研究者。2022年5月に亡くなったばかり。

 それから数か月経って世界は、日本のような「平和な」国で最も起こりそうにないことが起きたことに衝撃を受けた。『闇の奥』の最後で、クルツの婚約者やのんきにクルージングを楽しむ会社の重役たちの幻想や自己満足をよそに、帰還者マーロウには、テムズ川が「果てしなく広がる闇の奥につながっているように」見える。おそらく世界のどこでだれが読んでも、コンラッドの物語は人が寄って立つ基盤を揺るがし、日常を悪夢にしかねない――とは言ってみるものの、自分は意識的に「我々」のいる場所に引き寄せてコンラッドを読もうとしたことはほとんどなかった。その意味でもコンラッド文学は私にとって「外国」文学だった。だが、「コンラッド文学」や「英文学」の枠も超えて「世界文学」の傑作とも称される『ノストローモ』は、タイトル自体が「我々の友」(ただし、この語の意味については諸説あり)とはだれなのかを問いかけているではないか――コンラッドの世界が歓迎されざる意味で「我々」にとってもさらにいっそう近くなり、単なる「外国の」小説として距離をおいて読むこと難しくなったかもしれない今、『黄金の矢』をあとまわしにして『ノストローモ』(幻戯書房の〈ルリユール叢書〉より、第二弾の邦訳として刊行予定)を「我々」のことばに訳しながらそんなことを考えた。

※拙稿で言及したコンラッド作品の日本語訳については、中野好夫訳『闇の奥』(岩波文庫)、黒岩敏行訳『闇の奥』、高橋和久訳『シークレット・エージェント』(光文社古典新訳文庫)、篠田一士訳『西欧の眼の下に』(集英社版世界文学全集)、木宮直仁訳『海の想い出』(平凡社ライブラリー)を参考にさせていただいたが、文脈にあわせて適宜私訳も試みた。

『放浪者 あるいは海賊ペロル』に収載しています、翻訳者・山本薫さんによる「訳者解題」の一部は、幻戯書房編集部のnote  で公開しています。併せてお読みください。
〈ルリユール叢書〉のInstagram公式アカウント 、本書および他巻の紹介をしています。ぜひご覧ください。

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